食育のチカラ

東京農工大学農学研究院(環境教育・社会教育)
教授 朝岡 幸彦

vol.6

味覚と咀嚼のために ~「食べる」という行為の意味③

 「哺乳類は噛む脊椎動物だ」と言われることがあります。噛むためには、やはり噛む道具としての「歯」が必要です。大塚則久さんは『「退化」の進化学』(2006年)で、歯はもともと体の表面を覆っていた楯鱗(じゅんりん/皮歯)だと言っています。ザラザラしたサメ肌(サメの皮)は象牙質の表面をエナメル質が覆った楯鱗でできており、大きさは違っても歯とそっくりなのです。

  このことから歯は、もともと体表全体を覆っていた楯鱗のうち、顎ができたときに口のまわりにあったものが拡大し、やがて顎の骨に根を下ろしたものだと考えられている。  

(大塚則久、「退化」の進化学、ブルーバックス、2006年)

 もちろん、サメと私たちの歯には、大きなちがいがいくつもあります。歯が生える回数では、魚類から爬虫類までは何度でも代わりの歯が生えてくる(多生歯性)のに対して、私たちの歯は子どものときの乳歯から大人の永久歯に一度しか生え変わりません(二生歯性)。歯の生え変わり方も、サメは代生歯が顎の内面に何枚も折り重なって待機して歯列の一カ所が脱落すると、後ろに寝ていた一番前の歯が反転して移動し顎の上に立ち上るのに対してヒトは歯が抜けた後に同じ場所に下から生えてきます(垂直交換)。歯の形も、魚類から爬虫類までの歯はふつう単純な円錐形をしているのに対して、私たちには臼歯があって噛み合わせ面は凸凹(凸の部分は喉頭)しています。さらに、歯は顎の縁にならんで獲物に噛みついて逃がさないように使われたため、歯の生える場所は上下で互い違いになっています。  もともと身体を覆う楯鱗であった歯が次第に「噛み付く」ことに適したものに進化することで「咀嚼(そしゃく)」という独自の機能をもつようになりました。

  単弓類では哺乳類に進化する過程で、とくに犬歯より後の歯の形が大きく変わって、いくつかの喉頭をもつ臼歯となった。単喉頭歯から多喉頭歯への進化は次のように説明される。まず大きな主喉頭歯の前後に小さな結節ができる。上顎歯ではこの2つの結節が外側に、下顎では内側にまわりこんで三角形の三喉頭歯となる。この段階ではまだ上下の歯はたがいちがいだが、下顎の歯が低い突起を棚状に後方にのばすと、杵にあたる上顎の喉頭を臼にあたる下顎のでっぱりがうけて、咀嚼できるようになる。

(大塚則久、「退化」の進化学、ブルーバックス、2006年)

 モノを「食べる」うえで、「咀嚼」という臼歯で食物を細かく嚙み砕き、磨り潰す機能の意味は大きいのです。

 食物の表面積が増すので唾液との接触面積も増え、丸呑みにくらべて消化効率がよい。恒温動物は変温動物にくらべて10倍も多くのエネルギー(食物)を必要とする。咀嚼という口腔内消化をすると、胃や腸に送られる食物の消化時間が短縮できる。咀嚼という効率のよい消化法は哺乳類の恒温性の基礎となった。

(大塚則久、「退化」の進化学、ブルーバックス、2006年)

 こうして咀嚼という機能を歯にもたせたことで、一部の歯は杵と臼のようにペアとなって働く必要があり、生え変わりの回数も一度だけに減少したと考えられています。歯に「噛み付く」だけでなく、「咀嚼する」という機能をもたせた代生歯の数の退化は、哺乳類の大きな特徴の一つとなりました。
 さて、咀嚼するためには、口の中に食べるものを長く留めておく必要があります。魚類が呼吸器(鰓)の1つを咀嚼器(顎)に作り変えても、呼吸器にはスペアがあったので顎を手に入れた魚が窒息してしまうことはありませんでした。しかし、私たちの口には、相変わらず呼吸器と咀嚼器の2つの機能が与えられています。この問題を解決するために、哺乳類は2次口蓋という仕組みをもつようになりました。爬虫類までの平屋建ての口蓋から、軟口蓋の先にあるノドチンコ(口蓋垂)によってモノを飲み込む瞬間に跳ね上がって気道をふさぐことで、2階建て(1階が食物を取り入れる口腔、2階が酸素を取り入れる鼻腔)を可能にしました。

 2次口蓋ができたことは脊椎動物の進化にとってきわめて大きな意味をもつ。空気も食物もとおる相部屋だと、口に食べ物がつまっているときは息ができないので丸呑みにするしかない。それが2階建なら気道が確保されているので息ができる。こうして口の中でゆっくりと咀嚼するゆとりが生まれた。

(大塚則久、「退化」の進化学、ブルーバックス、2006年)

 実は、口の中で長く咀嚼するためには、「舌」の役割も大きいのです。もともと舌は魚類の口の粘膜にはじまるそうです。魚の舌には筋がないので喉の骨から離れて動かすことはできませんが、私たちの舌は肉質で腺もあるため自由に動かせるようになったのです。食べ物を咀嚼するときに活躍するのが、歯列の外側にある頬筋(きょうきん)と内側にある舌です。
 会話をしながら「食べる」ということは、咀嚼と呼吸とを口蓋垂の開け閉めをしながらほぼ同時に行うということであり、舌も咀嚼のためのこね回しと会話のための発生の補助をほぼ同時にするという超絶対応をしているのです。この絶妙のタイミングとバランスがわずかにずれることで、私たちはむせたり舌を噛んだりすることになります。
 とはいえ、舌の機能の醍醐味は、やはり味覚であり、芸術的とさえ言えます。

 哺乳類の舌は形もはたらきも最高レベルに達する。舌の上皮には味蕾(みらい)という味覚受容器が分布している。甘み、塩辛さ、酸っぱさ、苦味の4種類は生存に欠かせない。甘みは糖とアルコールによるものでエネルギー源である。塩辛さはミネラル、とくに塩化物による。私たちは海で生まれた遠い祖先から塩味の体液をうけついでいて、適度の塩分濃度を維持しなければならない。酸味は酸と酸性塩、苦味はアルカロイドによるもので、いずれも自然界では毒物の特徴である。

(大塚則久、「退化」の進化学、ブルーバックス、2006年)

 これに「うま味」を加えて、しばしば「5基本味」と呼ばれます。味を感じる感覚器官である「味蕾」は舌の表面のほかにも、喉の少し手前の上顎(軟口蓋)とモノを飲み込むときに蓋をする喉頭蓋、食道の入口に分布しています。面白いことに、人の味蕾の数は妊娠5〜7ヶ月の胎児のときにピーク(顔の表面から胸に分布)に達し、それ以降、次第に減り続けて大人では9000個程度になると言われています(森田由子、生きものたちの不思議な超・感覚、2007年)。味蕾の数はイヌ(約1700個)やネコ(1000個未満)よりも、ブタ(1万個以上)やウシ(2万5000個もしくは3万5000個以上)が多く、ナマズに至っては10万個から20万個もあるそうです。味蕾の数が味覚の繊細さを決めるとすると、ナマズは人間よりもはるかにグルメということになります。

朝岡幸彦(あさおか ゆきひこ / 白梅学園大学特任教授/元東京農工大学教授)