食育のチカラ

東京農工大学農学研究院(環境教育・社会教育)
教授 朝岡 幸彦

vol.10

究極のタブー ~「食べる」という行為の意味⑦

 マイケル・サンデル教授の正義論の代表作『これから「正義」の話をしよう』(2011年、早川書房)には、ミニョネット号事件と呼ばれる有名な事件が紹介されています。
 漂流に伴う飢えと渇きに耐えきれず、雑用係の少年を殺害した3人の行為が道徳的に許されるかどうかの判断を求めているのです。

  弁護側の最も強力な主張は、悲惨な状況を考えれば、三人を救うために一人を殺すことが必要だった、というものだ。誰も殺されず、食べられなかったら、四人全員がおそらく死んでいただろう。衰弱し体調を崩していたパーカーが当然の候補者になる。パーカーはいずれにしてもまもなく死ぬに違いない体。さらにダドリーやスティーブンズとは違って、パーカーに係累はいなかった。彼が死んでも支えを奪われる者はいなかったし、悲嘆にくれる妻や子供が後に残されることもなかった。  

(M.サンデル、これから「正義」の話をしよう、2011年、45-46頁)


 こうした主張に対する異議申し立てとして、読者が「行動の道徳性は行動がもたらす結果だけに依存している」とする功利主義的な立場を取るべきか、「いくつかの義務や権利は、社会的結果とは無関係に尊重されるべきだ」と考えるのか、を問うものとなっています。
 しかし、飢えて死ぬことを避けるための殺人が許されるのかという問いの背景に、殺人そのものよりも食のタブーの最たるものと言える、「人食い(カニバリズム)」の問題があることを見落とすことはできません。
 とても忌み嫌われる表現であり、行為のはずなのですが、最近の人気漫画やアニメである「東京喰種(トーキョーグール)」 「進撃の巨人」には、なぜ食人が登場するのでしょうか。
 『カニバリズムの起源』(T.D.ホワイト、2001年、日経サイエンス)によれば、過去の民族誌的な報告は必ずしも食人の証拠にはならないと考えられており、「食用にされた動物の骨に見られる傷などと同じパターンが人骨に残っている場合に、食人があったと認める」という厳しい基準が設定されています。こうした基準を採用する理由は、食人そのものが最大のタブーとみなされ偏見に結びつけられやすいという文化的・政治的な意味ばかりでなく、人間が死体を処理する方法が驚くほど多様で食人とその他の埋葬慣習とを区別することが技術的にも難しいからです。それでもなお、先史ヨーロッパのいくつかの遺跡(スペインのグラン・ドリナ、クロアチアのクラピナ岩陰遺跡ビンディヤ洞窟、フランスのムラ・ゲルシー洞窟)では、食人の痕跡が確認されるそうです。
 さらに、北米のカウボーイ・ウォッシュと呼ばれるアナサジ文化の住居跡からは、ヒトの心筋や骨格筋中に含まれる色素タンパク質であるミオグロビンが土器や人糞から見つかっており、「人間の肉が鍋で調理されたこと」がほぼ間違いないと考えられています。

  北米南西部のアナサジ文化で人間による食人があったことを示す決定的な証拠が、コロラド大学医学部のマーラー(Richard A.Marlar)らによって2000年秋に発表された。調査チームはコロラド州南西端のメサ・ヴェルデの近くで、カウボーイ・ウォッシュと呼ばれる1150年ごろのアナサジ文化の3つの住居跡を発掘した。ここでもマンコス渓谷など他の遺跡での報告と同じ特徴が見つかった。埋葬されたのではなく、解体されて叩き割られた人間の骨が散乱していたのである。これらの骨の保存状態がきわめてよく、慎重に発掘し特別に注意しながら標本を取り扱ったおかげで、化学分析を導入できた。そして、ついに食人を直接的に示す確実な証拠が得られた。  マーラーらは、ヒトのミオグロビンが土器に付着していることを発見した。ミオグロビンは心筋や骨格筋中に含まれるタンパク質だ。これは人間の肉が鍋で調理されたことを示している。ほうきされた住居の炉跡で見つかった焼けていない人糞からも、ヒトのミオグロビンが検出された。

(T.D.ホワイト、カニバリズムの起源、2001年、日経サイエンス、99頁)

 『ヒトはなぜヒトを食べたか』(マーヴィン・ハリス、1990年、早川書房)では、メソアメリカ(アステカ)における捕虜の人身供儀と食人習慣を結びつけて考察しています。いまや食人があったことを立証するよりも、なぜ食人が行われたのかを明らかにすることが重要であるようです。
 しかし、私たちがいま一つ考えなければならないことは、『ポスト・コロニアリズム』(本橋哲也、2005年、岩波新書)で指摘されている、食人(カニバリズム)がヨーロッパ世界による新大陸世界の支配を正当化する装置として使われたということです。食のタブーが同じタブーを共有する仲間の連帯を強化するのに対して、タブーを犯す者への差別や弾圧を正当化する根拠ともなりうるのです。
 1492年10月12日にクリストファー・コロンブスはバハマ諸島グァナハニ島に到着して、次のように記録しています。

  …私には、彼らはあらゆる面からみていかにも貧しい者達のように思えました。彼らは皆、母親が彼らを産み落とした時と同じような状態の裸で歩いており、女達も同様でした。…誰も皆姿がよく、美しい体つきをしており、顔立ちもなかなかよいのです。…中には黒く塗っている者もありますが、彼らは、カナリア諸島の者達と同じ肌色をしており、黒くもなければ、白くもありません。…彼らは武器を持っていませんし、それがどんな物かも知りません。…彼らは利巧なよい使用人となるに違いありません。事実、私が彼らにしゃべることを、彼らは皆すぐに口にいたします。私は、彼らは簡単にキリスト教徒になると思います。彼らはどんな宗教も持っていないようなのであります。私は、神の思し召しにかなうなら、この地を出発する時には、言葉を覚えさせるために、6人の者を陛下の下に連れて行こうと考えております。

(『コロンブス航海誌』林屋永吉訳、岩波文庫、1977年、37-39頁)

 ここには、すべてに「従順な他者」と出会いたいという植民者のイメージが投影されているのです。布教であれ、金銀の採掘であれ、先住民を劣等な生き物とし見なすことは植民者にとって都合がよく、さらに原住民が悪魔のような存在であると証明できれば、なおのこと好都合だと言えるのです(松橋哲也)。そのために「発見」されるのが「食人種」という存在でした。「ボイーオ」という名前が初めて出てくるのが、11月23日であり、この日が「カニーバレス(カーニバル)」という言葉が世界で初めて文字として記録された日となりました。

  同伴のインディオ達は、これはボイーオという広大な土地で、そこには額に目が一つしかない人間や、カニーバレスとよばれる連中が住んでいるとのべ、彼らを非常におそれているようであった。そして船がそちらに向かって行くのを見るや、彼らに喰われてしまう、彼らは武器をたくさんもっている、といって黙りこんでしまった、とのべている。
  提督は、これはある程度事実なのかもしれないが、武器をもっているというなら、知恵がある人間だろうと考えた。そして、何人かが捕らえられて島に帰って来なかったため、喰われてしまったものと考えたのだと思うとのべている。彼らは、キリスト教徒達や提督を、初めて見た時には同じように考えていたのである。

(『コロンブス航海誌』林屋永吉訳、岩波文庫、1977年、101-102頁)

 こうして、相互の誤解のもとに「カニーバル」という言葉が一人歩きを始め、他者への一方的な支配と差別の動機に転化したと考えられます。「人を食うカリべ族」という表現が少しずつ形を変えて、植民者に都合の良い支配の論理(名付けによる支配)を生み出したと言えます。

  提督は食料とするアヘスを取りにやるために、美しい浜辺にある陸地へ端艇を差し向けたが、乗組員達はそこで、弓矢を持った数名の男に出会い、彼らと話をして、弓二本と多数の矢を買い取った。そして、そのうちの一人にカラベラ船へ来て提督と話をしてくれないかと頼んだところ、その男が訪ねてきた。彼の顔つきは、今まで見た連中とはかなり違い、ずっとみにくかったと提督はのべている。彼らは、体じゅうにいろんな色を塗りつける習慣をもっていたから、その顔にも墨を塗っていた。頭髪はみな長く伸ばし、後ろでひっくくって束ね、それをおうむの羽根を並べた上にのせていた。この男も他の連中も皆裸であった。提督は、この男は人を喰うカリベ族に違いないと考えた。

(『コロンブス航海誌』林屋永吉訳、岩波文庫、1977年、204頁)

 他方で、こうした食人のタブーと結びつきながらも、狂牛病に代表されるプリオン病と食人習慣との関係を指摘しているのが『眠れない一族』(ダニエル・T・マックス、2007年、紀伊国屋書店)です。
 イギリス人の中で狂牛病に罹る人と罹らない人がいる理由を調べているうちに、プリオン遺伝子にプリオン病に罹りやすい「ホモ接合体」と罹りにくい「ヘテロ接合体」とがあり、「研究者は人類学上のある古い謎を解き明かすこと」に成功しました。それは50万年前の人類にホモ接合体が減少してヘテロ接合体が増える結果を生む出来事が起きた可能性があり、食人の習慣によってホモ接合体をもつ人が淘汰されてしまったというものです。

  コリンジらによってその存在が仮定された先行人類(世界中に広がり、火を使い、狩猟をし、現在知られているような通常の病気に襲われることはなかった)と共存するためには、病原体はきわめて緩慢に感染するものでなければならない。肉に含まれるとすれば、強烈な胃酸と長時間の調理に耐えねばならない。さらに世界中のどこに住む人にでも手に入る肉に由来する必要がある。これらの条件をいちばんよく満たす肉は人肉であり、肉に含まれる病原体を拡散させるのにもっとも好都合な行為は食人ということになる。」

(ダニエル・T・マックス、眠れない一族、2007年)

  つまり、現在の人類にプリオン病に罹りにくい「ヘテロ接合体」が偶然ではあり得ないほど多いのは、食人によって「ホモ接合体」が淘汰され、そのおかげで人類は「食人を厭うように仕向け」られ、その結果としてプリオン病の被害が比較的に少なくてすんでいるのではないかということです。ことの真偽はともかく、食人というタブーが、私たちの文化に大きな影響を与えていたことがよくわかっていただけると思います。

朝岡幸彦(あさおか ゆきひこ / 白梅学園大学特任教授/元東京農工大学教授)