私はアメリカへの留学を含め5年間、管理栄養士養成課程で栄養学を学んできました。学べば学ぶほど、栄養について考えることが増えていき、同時に、食や健康に関わる現在の方向性に疑問や矛盾を感じるようになりました。特に、進路を決めなければならなかった最後の2年間は、何を目指して管理栄養士になろうとしているのか、自分の気持ちと現実との間でもがく日々が続きました。
そのような中で、私が導き出した結論は、「食べることを応援していきたい」ということでした。「栄養」ではなく「食べること」、「指導」や「教育」ではなく「応援」という言葉を使うことで、私の栄養学への向き合い方、栄養士としての姿勢を表現したいと思っています。
「食べること」には、食に関わるあらゆることが含まれます。栄養素も、食べ物も、料理方法も、味付けも、盛り付けも、環境も、時間も、一緒に食べる人も、食べる人のからだの状態も、気持ちも…全てが、「食べること」を形作る大切なものなのです。
これらのひとつひとつを事細かに議論するのは、専門家にお任せするとして、今回は私の考える「食べること」を、分かりやすいように、大きなふたつの要素としてご紹介したいと思います。ひとつは「からだへの食事」、そしてもうひとつは「こころへの食事」です。
私の考える「からだへの食事」とは、「ヒトとして個体を維持するために最低限必要なエネルギーおよび栄養素の補給を目的にした食事」をいいます。
実は、教科書に書かれているのも授業で教えてもらうのも、基本的には「からだへの食事」についてがほとんどだと気付きました。性別に加えて体重、年齢、身体活動量などの数値さえあれば、必要エネルギーと栄養素量はだれにでも簡単に計算できます。学生はこれらを即座にはじき出して、料理、そして献立に変換する作業を繰り返し学びます。これとは逆に、食事記録をもとに、摂取したエネルギーと栄養素量を算出して、標準値(基準値)の範囲と比較し「過剰」「適当」「不足」傾向とそれぞれ評価を下します。上級生になれば、様々な検査値を読んで病気・病態別に即した食事を考える訓練もします。もちろん、献立の中に「季節感を出そう」とか「彩りをよくしよう」とか様々な工夫はしますが、それよりも上位に「日本人の食事摂取基準」や「食品交換表」といった数値的バイブルが君臨していると、私は常に感じていました。
「食べること」の目的を「生命を維持する」という生物学的なことだけとするならば、このように計算式で求められるエネルギーと栄養素量を満たす食事であれば、どんなものでもいいと考えられます。料理方法、食べ物の好みや食べる環境といった、エネルギーと栄養素量以外のあらゆる要素を無視しても、食事として問題ないものとなってしまうのです。
けれども、私たちはみんな知っています。エネルギーと栄養素補給のためだけに食べるのではないことを。「食べること」は、食べ物・料理のおいしさを味わうことであり、作ってくれたひとのこころを感じることであり、一緒に食べる人と時間を共有することであり、ほっとするひとときであり、悲しみや辛さを紛らわせるときであり、時にはイベントであり、そして何よりも楽しみなことなのです。
これらの部分が、もうひとつの要素、私が大切にしたい「こころへの食事」です。私は風邪を引いたときに、母が作ってくれるおかゆを食べると、からだだけではなくこころもじんわりと温まって、薬よりも効くような気がします。おかゆ自体には、エネルギーも栄養素もほとんどないけれども、私を元気にする要素がたくさん含まれていると思うのです。ほかにも、大好きな仲間とこたつでつつく鍋が、ひとり鍋より数倍もおいしく感じられたり、外国旅行から帰って来た日に食べた炊き立てのご飯とお味噌汁がたまらくおいしかったり、失恋した日に食べたケーキが全然甘く感じられなくて、余計に悲しくなったり…。このような経験を、誰しも必ず1つは持っているのではないでしょうか。
アメリカ留学中の冬休み、カリフォルニアの友人宅へ遊びに行ったときに出してくれた太刀魚の焼き魚(中央)と納豆(右下)。中西部の田舎の大学町に住み、日本食に飢えていた私にとって、半年振りに食べた大好きな和の味は、涙ものでした。日本人としてのDNAをひしひしと感じた瞬間でもありました。
食べ物をカロリーでしか判断できなくなったり、「からだへの食事」にばかり気を取られたりして、食べることの楽しさ、「こころへの食事」を忘れてしまっているひと、もしくはそれを無理やり封じ込めようとしているひとを、私は何人も知っています。私自身も一時期、自ら「こころへの食事」を制限した結果、少し病んでしまった経験があり、この苦しさのかけらは分かりるつもりでいます。
「こころへの食事」には、計算式も数値基準もありません。献立モデルも分類表も作れません。ケーススタディでの勉強にも限界があります。「これ」という明確な答えは、きっと本人にさえ存在しないのではないかとも思います。なぜなら、同じ人物の中でも日々刻々とこころの状態は変わっていくからです。一人ひとりが自分ときちんと向き合って、からだとこころの声に耳を傾けてみるしかないのです。
「食べることを応援する」と書きましたが、「からだへの食事」を応援している栄養士はすでにたくさんいます。私も、「からだへの食事」を応援する技術をある程度は身につけていると思いますが、私が本当に応援したいのは「こころへの食事」の部分なのです。それを実践するのは、今私が考えている以上に難しいことに違いありません。これまで学んできた分野以外の勉強が必要なだけでなく、私の中にある未熟な部分を見つめ直し、管理栄養士である前にひとりの人間として成長しなければなりません。でも、私の周りに私を必要としてくれるひとがいる限り、実現に向かって歩むことをやめたくはないのです。
誕生日といえば、やっぱりケーキです。ありったけのろうそくを立て、火をつけて、誕生日の友人を待ってますが、なかなか現れません。どんどん短くなっていくろうそく…。実はこれ、アイスクリームケーキなのです!もう限界…、と思ったころにようやく本人が到着。速攻でバースデーソングを歌って、吹き消してもらって、やれやれ一安心。今でも、ろうそくに火がついたケーキをみると、このときのことを鮮明に思い出します。
食育推進基本計画によると、「食育」とは、「食に関する知識と食を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てること」となっています。私だったら、このように定義してみたいです。「食育とは、ひとが、食べることと一緒に育っていくこと」。
ひとは日々いろいろな経験を積み重ねて成長していきます。子どももおとなも、みんな困難を一段ずつ乗り越えて生きていると思います。そんな生活の中に「こころへの食事」が存在して、そのエピソードとともに人々が育っていくのが、私の考える「食育」です。私たちは、周りにいるたくさんのひとに助けられ、支えられながら、自ら持っている力を使って「育っていく」のです。「育てる」という教育者側からみた一方向のベクトルを行使するだけでは、育つ力を押さえつけてしまいかねません。私が、「教育」や「指導」という言葉を使わずに「応援」としたのは、その力を信じているからです。食とともに育っていく、上へ上へと向かうベクトルを、太く元気なものにするお手伝いがしたいのです。
楽しいことや嬉しいこと以上に、苦しいことや辛いことの方が多い世の中です。「食べること」はせめて、最後まで自由であってほしい、だれにとっても楽しみであってほしい。だから、まず私自身が、「食べること」を、「こころから楽しもう」と思います。
外国人向けに英語で行う野点(のだて:野外で催される茶会)に参加したときに供されたお菓子です。ハローウィーン(主に米国で行われる10月末のイベントで、中身をくりぬいたパンプキンがモチーフ)と和菓子がコラボレーションした見事な一品でした。パンプキンの笑顔に、私も思わず、にっこり(^u^)。