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vol.34世の中は まめで四角で丸らかで とうふのようにあきられもせず ~食と食育を考える100冊の本(16)

原田信男『豆腐の文化史』岩波新書1999、2023年

原田信男『豆腐の文化史』岩波新書1999、2023年

  「豆腐(とうふ)」という名前は、なんだか不自然な気がしますね。よく言われることですが、大豆を腐らせた(発酵させた)ものが「納豆(なっとう)」と呼ばれるのに、腐っていない豆腐はなぜ「腐」ると書くのでしょうか…。白川静『新訂字統』で、この「腐」の文字を引いてみると…

 【腐】14 フ くさる・ただれる・いためる
 形声 声符は府(ふ)。 〔説文〕四下に「爛(らん)なり」とあり、肉の腐爛することをいう。またすべて腐敗し、壊乱したものをいい、腐朽の意に用いる。腐刑は割勢の刑。宦官の去勢の法と同じ。心に煩乱することあるを腐心といい、無能な学者を腐儒という。(新訂字統p771)

 やはり、「腐」の文字にはあまり良さそうな意味はありません。では、なぜ「豆腐」などと呼ばれるようになったのでしょうか。

 そもそも豆腐の「腐」には、「くさる」のほかに「ただれる」「くずれる」「ほころびる」などの訓があり、肉の腐爛することをいい、腐敗・腐朽するの意に用いられる。このため日本でも豆富の字が宛られることが江戸時代から行われてきた。もちろん中国でも孫大雅が「腐」を排して豆腐を菽乳と詠んだように、乳製品との関連に注目しておく必要がある。つまり豆腐製品の起源は、中国の農耕文化そのものというよりも、西域牧畜社会の発酵文化に、その原型があると考えるべきだろう。(本書p42)

 どうも、「腐」は「発酵」という西域の乳製品から来ているようです。確かに牛乳・馬乳・羊乳の代わりに大豆の豆乳を使えば、チーズならぬ豆腐もしくは湯葉のようなものができあがります。

豆腐の誕生

 そもそも豆腐がいつ生まれたのか。古そうな気もしますが、味噌や醤油などのように大陸(中国)から渡ってきたものであるだろうと想像できますね。豆腐の場合には、発明者がはっきりと記録されているのです。

 およそ古くからある加工食品については、発明者の個人名など特定できないのが普通であるが、豆腐に関しては紀元前2世紀頃に淮南王(わいなんおう)劉安(りゅうあん)が考案したといわれている。(28)

 紀元前2世紀頃に淮南王の劉安が発明したとされているのです。とはいえ、貴族が自ら豆腐を作ったとは考えられず、『淮南子(えなんじ)』という百科全書を多くの食客に編纂させる中で、豆腐の製法を知る者がいたと思われるのです。ところが…

 劉安は、こうした専門家を用いて、紀元前139年、百科全書的な書物(内書21編、外書33編、中編8巻)の編纂を果たした。これが『淮南子』であるが、このうち残るのは内書21編のみで、他はほとんど散失に帰した。また、こうした逸文の一つに『淮南王万畢術(ばんひつじゅつ)』があるが、ともに豆腐の記述は存在しない。(30)

 なんと肝心の『淮南子』には「豆腐」が登場しないのです。いったい何を根拠に、豆腐を劉安が発明した(劉安の豆腐創案説)ことになったのでしょうか。

 こうした劉安の豆腐創案説については、1200年に没した南宋の朱子の『晦庵(かいあん)先生朱文公文集』巻三の「蔬食十三詩韻」のうちの「豆腐」に見える。ここで朱子は詩題に「世に伝う豆腐本は乃ち淮南王の術」という注を付した上で、「早く淮南の術を知れば、安座して泉(銭)布を獲る」と詠っており、豆腐が売れ筋のよい商品として出回っていたことが窺われる。この詩は朱子学の創始者の作ゆえ、この伝が広まり、後に定説となるような役割を果たした。このため豆腐は、淮南佳品とも称される。(30)

 やはり大物がいましたね。朱子学といえば、日本を含む東アジアの儒教文化圏に大きな影響を与えた儒教の学問体系の一つです。朱熹が何を根拠に劉安説をとったのかは不明ですが、儒教の大家がこう言っているのだからそうに違いないと考えるのも無理はないような気がします。そこに新たな発見がもたらされます。

 河南省密県の打虎亭村(新密市)において、1960年頃に打虎亭西側1号墓の発掘が行われた。これは漢代最大の墳墓とされるもので、線刻を施した画像石によって墓壁が構成されている。描かれているのは漢代の生活風俗で、その東耳室南壁西幅石刻図の一部に、豆腐作りの工程を示すと思われる図がある。これは『密県打虎亭漢墓』に拓本と模写本とが掲載されており、酒作りか豆腐作りかであろうと報告されている。(32)
 たしかに陳氏の解釈にも細部に疑問は残るが、最後の型箱の形などは今日の豆腐を想像させるし、大筋の流れとしては、これが豆腐の製造工程を描いた厨房図である可能性は高いように思われる。もし、この解釈が正しいとすれば、すでに漢代から豆腐の製造が始まり、しかも現在の製法とほぼ変わらない工程が完成していたとしなければならない。つまり豆腐の登場は、2世紀にまで遡り、淮南王劉安から200年後には食用とされていたことになる。(33)

 この打虎亭西側1号墓石刻図の発見によって、豆腐の登場が劉安の200年後まで遡ることが確認されたのです。「誰が豆腐を発明したのか」という問題について、これ以上の文献史料や考古資料は発見されていません。この次に豆腐が登場するのは、もっとずっと後になってからのようです。

 中国文献における豆腐の初見は意外と遅く、10世紀頃に成立した北宋・陶穀撰の『清異録』巻一官志に、時戢(じしゅう)という人物の次のような話が載せられている。
 時戢、青陽丞となる。己を潔くして民を勤む。肉味を給(た)べず。日々に荳腐数個を市(か)う。邑人荳腐を呼びて小宰羊となす。
 時戢という人物が、青陽(安徽省池州市)の知事補佐官として赴任した。清廉潔白を旨として人民のために尽くした。その時戢は、肉を食べずに、毎日毎日豆腐数個を買って食べていた。それで村人たちは、質素な副長官の羊肉の意で小宰羊と読んだ。そしてこれが豆腐の異名として知られるようになった。(40-41)

 打虎亭西側1号墓石刻図から700年後に、ようやく「荳腐(豆腐)」が清貧を象徴する食べものとして登場するのです。

 いずれにしても考古資料と文献史料から推測を重ねれば、豆腐あるいは豆腐的な食品の発明は、紀元前の漢代であった可能性も考えられるが、漢民族の間にも広がりをみせたのは唐代後半から宋代にかけてのこととしてよいだろう。そして豆腐が一般化したのは、おそらく9世紀頃のことと考えられる。そもそも大豆栽培の歴史は、少なくとも数千年以上も前にまで遡り、優秀な植物性食料として利用されてきたが、そこから豆乳としてタンパク質を抽出し、これを凝固させて独自の風味と舌触りをもつ食品とするまでには、かなりの長い時間を要した。そして、これには遊牧民の乳文化が関与している可能性が高いと思われる。(45)

 結局、なぜ「腐」の文字を使うのか、という話に結びつくのです。漢民族よりも以前に乳文化(発酵文化)を持っていた遊牧民もしくはそれと接点をもつ民族が、大豆の有用性を生かす加工食品をつくるために遊牧民の技術を応用したのではないでしょうか。

大豆から豆腐へ

 豆腐の原料となる大豆が、数千年以上も前から栽培されていたことがわかっています。確かに大豆は、作物として素晴らしい特徴をもっているのです。

 大豆は、一年草の豆科の植物で、広く食用とされており、黒大豆・黄大豆・青大豆などがある。未成熟の種子は、枝豆として茹でて食されるが、完熟種子はエネルギー価が高く、タンパク質や油脂分を多く含む。国産青大豆の場合で、100グラム中、熱量354キロカロリー、タンパク質33.5グラム、脂質19.3グラムを含み、ブタ肉の脂身付きバラ肉同量の366キロカロリー、14.4グラムに匹敵する。しかし、コレステロールはゼロであるから、優良健康食品の雄とみなされている。(2)

 また、大豆は畑作物の連作障害を予防し、地力を維持する上でとても重宝する作物なのです。

 しかも大豆は、一般に不作とされる年でも収穫が可能であることから、すでに中国では紀元前一世紀頃の農書『氾勝之書』に、古代人は大豆を飢饉の貯蔵物とした旨が記されている。基本的に大豆は、他の作物に比して耕地を選ばず、定畑や焼畑のほか、荒れ地や田畑の畦畔などでも作られた。特に大豆には根粒バクテリアが共生し、これが空中窒素を固定して地力の維持や増進に効果があることから、畑地の輪作体系に不可欠な作物として組み込まれてきた。(7)

 私の故郷である新潟県ではたくさんの大豆が栽培されていたのですが、その多くが田んぼの畦(畦畔)でした。こうすることで田んぼの仕切りとなる畦道も畑として有効に利用することができ、枝豆として多く食べられていました。ところが、良いことばかりではありません。

 ただ大豆は、独特の豆臭があるほか、普通に少し煮ただけでは消化吸収が悪く、身体に悪影響を及ぼす成分が十分に分解されないため、食用とするにはかなりの加工技術を必要とする。この利用法を発達させたのが、温暖温潤な東アジア・東南アジアのモンスーン地帯で、ほとんどが豆腐として食用されるほか、味噌・醤油・納豆といった微生物を利用した発酵食品に加工される。ただ、こうした加工技術が発達をみたのは、東アジア・東南アジアという世界に限られてしまい、世界的にみても搾油用には膨大に利用されているにもかかわらず、調理して食用とする地域は少ないとされている。(4)

 そこで、未成熟な豆を枝豆のように茹でて食べるか、加工して食べやすくする必要があったのです。

 大豆は、基本的に乾燥させた堅い種子を食用とすることから、その調理にはかなりの手間と工夫を要する。しかも大豆には、イソフラボンやサポニンなど不快味を生ずる物質も含むことから、これらを除去する必要があり、いくつかの調理法が考案されている。たとえば炒り豆のように直接火を加えて食べるか、煮豆などのように長時間水に漬け込んで煮込んだりする。あるいは臼やすり鉢などで粉食とする。これには乾式製粉と湿式製粉とがあり、前者は黄粉のように乾燥したまま粉食にするが、後者は呉のように水分を含ませてから磨り下ろす。さらに納豆などのように発酵現象を利用して成分そのものを変化させて食用とするケースもある。豆腐はいずれにも属さず、湿式製粉の上、豆乳を搾って凝固させるという複雑な工程が採られる。(2-3)

 このように豆腐以外にも、大豆を加工して食べる方法が考案されているのですが、やはり私たちに一番馴染みのあるのは、味噌や醤油ではないでしょうか。とりわけ、日本人はアミノ酸中毒だといわれるほど醤油をよく使いますが、それは日本にのみ繁殖しているニホンコウジカビ菌(アスペルギルス・オリゼー)の存在が大きく寄与しています。

 しかし、日本の醤油は優秀であった。同じく『日本紀行』(カール・ツンベルグ)第二六章に「(茶は中国の方が品質がよいが)その代り非常に上質の醤油を作る。これは支那の醤油に比し遥かに上質である」として、すでに一八世紀後半には、日本の醤油が大量にヨーロッパに輸出されている旨を述べている。(10)
 これはアミノ酸発酵などを引き起こすコウジカビ菌の優秀性に由来するもので、とくにタンパク質やデンプン質類に対して高い分解能力を有するニホンコウジカビ菌(アスペルギルス・オリゼー)を利用しているため、美味しい味噌・醤油・日本酒・酢が製造される。この種の菌は、日本の国菌として認定されており、わが国独自のコウジカビ菌で、日本でのみ繁殖している。これは長年にわたる選抜育種の成果であり、先人の努力によって創り出された独自のコウジカビ菌ということになる。こうしたすぐれた醸造技術によって、大豆を原料とした味噌や醤油などの重要な発酵調味料が生み出されたのである。(11)

 さらに、酒づくりと同様に、豆腐づくりにも「水」が大切な役割を果たします。一般的に「きれいで豊富な水」があれば良いように思われますが、水の質、つまりpH(酸性かアルカリ性か)も重要です。「水100ミリリットル中のミネラル分を酸化カルシウムに換算して、1ミリグラム含まれる場合を硬度1度」として「硬度20度以上の水を硬水、10〜20度のものを中硬水、10度以下のものを軟水として区別する」(17)そうです。日本酒はミネラル分が酵母菌の発酵を促すため硬水が適しており、豆腐は硬くなり過ぎないように軟水を使うのが良いようです。

 ところで豆腐作りでは水がもっとも大切で、良い水を使うと豆腐が美味しくなるとされている。昔から名水が出るところが、良い豆腐の産地とされてきた。これは豆腐作りの工程に水が深く関わり、大豆の洗浄と浸漬、生呉の煮沸、凝固後の水晒しや冷却、さらに保存などの際に大量の水が使用されるためである。そして何よりも豆腐そのもののうち80〜90パーセントが水だからである。柔らかな絹ごし豆腐で89パーセント、堅い木綿豆腐でも86パーセントが水だからである。それゆえ原料の大豆や作業工程の良し悪しも重要であるが、大量に使用される水が豆腐の味に大きく関与することになる。このため「水は豆腐の命」ともいわれている。(16-17)

 豆腐づくりには「ニガリ」と呼ばれる凝固剤が不可欠です。

 基本的に豆腐とは豆乳中のタンパク質を固めたものであるから、これに用いる凝固剤もまた豆腐作りに重要な役割を果たすことになる。そこで凝固剤についてみれば、かつて日本では粗製海水塩化マグネシウム、つまり液体ニガリを用いることがほとんどであった。なお油揚や凍み豆腐などには、凝固力の強い塩化カルシウムの液を使うこともある。しかし古くから用いられてきたニガリでの凝固は難しく、今日では効率性の観点から、石膏を精製した硫酸カルシウム(スマシ粉)やデンプンを発酵させたグルコノデルタラクトンなどの化学製品が主流となってきた。ただしニガリの方が風味が良いので、最近は復活して高級な豆腐などに使われている。ニガリは苦汁とも書き苦塩ともいうが、海水から塩を取った残りの液を煮詰めて作る。近年では輸入海水を煮詰めて固めた固形ニガリが広く使われているが、もともとニガリは各家々で作っていた。(19)

 もちろん、ニガリを使わずに海水を使った豆腐づくりも各地にあったようです。さらに、ニガリの主成分である塩化マグネシウムが電気分解で金属マグネシウムに変化することから、戦時中に軍用機のジュラルミンの原料として使われたためスマシ粉(硫酸石灰/硫酸カルシウムつまり石膏)が使われ始めます。凝固剤としての石膏の利用は熟練がいらず、歩留まりも良いだけでなく、タンパク質やビタミン類の流失がないために栄養価が高い(ビタミンB1は牛乳よりも10%も多い)という特徴を持っています。

日本への伝来と普及

 豆腐の起源について、淮南王・劉安説が伝えられてきたことを見ました。同様に、日本への豆腐の伝来も、やはりあの弘法大師(空海)説があることは想像に難くありません。それほど弘法大師は偉大で、民衆に慕われていた(お大師様ならば…)ということがあるのでしょうが、日本への伝来はもっと後のようです。

 中国における豆腐の出現が、仮に漢代以前であったとしても、それが特殊な食品だったとすれば、日本への伝来も時間がかかったことになろう。…唐の滅亡後の平安時代に成立した漢和百科事典『倭名類聚抄』は、食品類の記述も充実しているが、豆腐には全く触れていない。10世紀前半には、まだ豆腐は日本に伝来していなかったとしてよいだろう。(52)
 したがって空海が唐から技術を伝えたとするのも弘法伝説の一種に過ぎない。確実に豆腐が日本の史料上に姿を見せるのは、12世紀も終わりに近い頃のことで、『中臣祐重記』の寿永2(1183)年正月2日条に、「波田御供」として「春近唐符一種・大豆四升六合<七合升下行>」とみえるほか、同3年正月2日条にも、「則安<唐符一種>」とある。正月2日に行われる春日若宮神社の日供始式の費用を、毎年大和国高市郡波田荘(奈良県高取町)が負担しているのが、豆腐の初見である。(52 )

 豆腐についての最初の記述が寺院の多い大和国(奈良県)にあることには、一定の合理性があります。豆腐の伝来が弘法伝説に加えられたように、中国で発明された(遊牧民かもしれませんが)豆腐の製法は大陸文化の受け入れ口となっていたお寺であろうと思われるのです。

 豆腐の史料には大和に関係するものが多く、中世後期には「奈良豆腐」が有名で、京都へも売りに来ていた。このことは日本における豆腐の発祥地が奈良であることを想定させる。…特に仏教寺院は、中国からの知識や技術の受け容れ口であり、豆腐という複雑な工程を要する食品の加工技術も、まずは奈良に移入されたものであろう。(54)
 どうやら中世の正式な料理の世界において、まだ豆腐は食材としての市民権を得てはいなかったと判断される。それまでの本膳料理は、儀式料理としての性格が強く、食膳を飾り立てることに主眼が置かれていたことから、豆腐にはその役割が与えられなかったものと思われる。次にみる精進料理を除けば、戦国期の懐石料理や元禄期以降の大名茶会の料理において、やっと豆腐はもてなしの食材として扱われ始める。(58)

 一定の技術を習得すれば、安くて美味しい豆腐づくりは庶民の食べ物として急速に広がるはずです。

 …しかし村レベルの酒宴に豆腐が登場するのは、やはり南北朝期頃のことである。(62)
 このほか永享2(1430)年の大検注下用帳(「王子神社文書」)によれば、4月22日から粉河荘東村(和歌山県紀の川市東野)で荘園領主・粉河寺による大検注(土地調査)が始まったが、その村レベルでの必要経費を記した帳簿に、「五十文 とうふ二」などと見え、これに伴って開かれた酒宴の肴として豆腐が盛んに供されていたことが知られる。この豆腐の調達先については、長享2(1488)年6月18日の紀伊国粉河寺六月会頭日記(「王子神社文書」)に、同寺六所宮の六月祭礼に参加した東野村の村人負担のうちに「百文 唐符屋」とあることから、同村に豆腐屋が存在していたことがわかる。(63)

 各家で比較的に容易に手に入るニガリを使って豆腐づくりが行われていたはずですが、やはり工程の複雑さや技能による差が大きいため、各村に豆腐を専門につくる家(豆腐屋)が生まれ、都市でもこうした豆腐屋から購入することで庶民の食材として定着したのでしょう。江戸時代に入ると、豆腐は庶民の食べ物として他のさまざまな豆腐派生食品(湯葉、雪花菜、油揚、ガンモドキ等)とともに愛されてきたのです。

朝岡 幸彦(あさおか ゆきひこ / 白梅学園大学特任教授/東京農工大学名誉教授)

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