知ってなるほど 教授のお話し 食育のチカラ

vol.26種子(タネ)を救え ~食と食育を考える100冊の本(8)

ロブ・ダン『世界からバナナがなくなるまえに』青土社、2017年

ロブ・ダン『世界からバナナがなくなるまえに』青土社、2017年

 私たちが毎日食べている食物は、ほぼ例外なく誰かの手によって栽培され、飼育されたものです。野生の植物(実や種子、根塊など)を採集し、野生動物を狩猟して食材にすることは、それが可能であったとしても、現代に生きる私たちにはかなり贅沢なものとなります。狩猟・採集生活から農耕・牧畜生活に転換することによって、私たちは多くの食料を確保できるようになって、人口を増やすことができました。確かに農業の始まりは私たちの文化や文明を発展させる上で重要な役割を果たしてきましたが、それだけでは80億人に達した地球上の人類のすべてを養うことはできません。その仕掛けと危うさを指摘する本書の意図を、原題「Never Out Of Season : Now Having the Food We Want When We Want It Treatens Our Food Supply and Our Future」がよく示しています。

 大ざっぱに言うと本書では、(灌漑、機械化、および化学肥料、殺虫剤、除草剤の大量投与などにより)資本を集中投下し、遺伝的に均質になった一種類の作物を大農場で栽培する現代の作物栽培方式(工業型農業、モノカルチャーなどと呼ばれる)が、私たちが生きていくためになくてはならない作物をいかに危機的な状況に追い込んでいるかが、また、そのような状況に直面している私たちは、それにどう対処すればよいのかが論じられている。(訳者あとがき、p385)

 本書は前半の個別の作物について述べた部分、バナナ(第1章)、ジャガイモ(第2・3章)、キャッサバ(第4・5章)、カカオ(第6・7章)、コムギ(第10章)、天然ゴム(第11章)と、後半のニコライ・ヴァヴィロフの種子コレクション(第8・9章)を含む作物やそれと相互作用する生物の保管・保護・研究について論じている部分に分けることができます。

レニングラード包囲戦の中で研究員たちが守ったもの

 レニングラード(サンクトペテルブルク)の包囲戦は、まさに独ソ戦における兵糧攻めの典型といえるものでした。1941年9月から1944年1月までの約900日間にわたって包囲された都市には数百万人の市民が取り残され、最初にガス・電気・水道のライフライン施設と市内すべての食糧を備蓄していたバターエフ倉庫が徹底的に破壊されました。多くの市民を残した市街地を完全に封鎖することで、1か月程度で「飢餓状態」が生まれると計算された科学的な飢餓作戦でした。ところが、この都市にはニコライ・ヴァヴィロフの種子コレクションがありました。

 もっとも差し迫った危険にさらされていた種子コレクションは、種子ではなくジャガイモであった。ヴァヴィロフは、6000を越える品種の、数千キログラムにのぼるジャガイモをアンデス地方で収集していた。これらのジャガイモは、ロシア(さらに世界)にとって途方もない価値があった。だがジャガイモの種子は保存が悪く、種芋となると、アイルランドで植えられていたもののようにさらに悪い。だから当時の最善の選択は、ジャガイモを実際に植えて、新たに収穫し直すことであった。ヴァヴィロフと彼のチームは、かつて皇帝の住居があった、レニングラードの南東およそ30キロメートルの地点に設立されたパブロフスクの実験所で、この作業を毎年繰り返していたのである。しかし包囲戦が始まった頃、ナチスはパブロフスクを含むレニングラード市郊外を爆撃し始め、ジャガイモ畑も爆弾にさらされた。(p156-157)

 ドイツ軍の包囲が進む中でレニングラード市街地ヘルツェン通り44番地の建物の暗い片隅に運び込まれた種子とジャガイモのほとんどは、そのまま種子バンクの科学者たちによって守られることになります。飢餓状態の都市で種子コレクションを守ることは、寒さや湿気などの物理的環境、ネズミなどからだけでなく、「作物の遺伝情報が詰まった貯蔵庫であったが、より単純に見れば食糧庫」に見えるコレクションを飢えた市民からも守る必要がありました。

 建物の外では、すでに2月の時点で数十万のロシア人が餓死していた。配給されていた食糧はもはやパンではなく、麦芽粉、植物繊維、子牛の皮であった。それでは誰も生きていけない。900日にわたる包囲のあいだに、150万人のロシア人の命が失われている。飢餓に耐えた者も寒さで死んだ。市内には、暖房のための石炭もまきも残っていなかった。 研究員も、凍えかつ飢えていた。彼らの苦難を尋常ならざるものにしたのは、建物の外には食べ物がほとんど残っていなかったのに、内部にいる彼らはそれに取り囲まれていたことである。食べ物に満ちた部屋のなかで、彼らは栄養失調に陥っていた。…1942年の冬になると、研究員のなかで健康な者は一人もいなくなる。最年長の一人ディミトリ・イヴァノフは最悪の状態にあった。…イヴァノフは、自分が収集したコメに囲まれて餓死寸前の状態にあったのだ。だが冬が深まっても、コメを食べなかった。やがて飢えがあまりにもひどくなり、やせこけた彼の身体はもはや耐えられなかった。1月初頭、彼はコメ袋に囲まれながら、タイプライターの前に突っ伏して死んでいた。…最終的には、包囲されたレニングラードに残ったVIRの研究員のうち、30人以上が死んでいる。自分の命とヴァヴィロフの偉大なコレクションのどちらを救うかという選択で、誰もが後者を選んだのである。(p159-161)

 なぜ、自ら餓死してまで研究員たちは、種子とジャガイモを守ろうとしたのか。その一つの答えをアイルランドの「ジャガイモ飢饉」から読み取ることができます。

最悪のパーフェクトストーム「ジャガイモ飢饉」

 ヴァヴィロフたちは、1935年までに世界中から14万8000種から17万5000種の作物品種と野生近縁種を収集していました。そのなかに研究員たちが飢えながらも守った6000種のジャガイモも含まれているのです。ジャガイモは南米アンデス地方を原産とする作物であり、スペインの征服者(コンキスタドール)が旧大陸に持ち帰ることで、ヨーロッパの食糧事情を大きく変えた「奇跡の作物」であるといわれます。しかし、なぜジャガイモの多様な品種(野生種を含む)が保存される必要があるのか、それがアイルランドのジャガイモ飢饉とどうつながるのか、そこには「優れた」能力を持つ作物(特定の品種)だけを育てれば良いという発想ではすまない大切な問題が潜んでいるのです。

 コンキスタドールは、新大陸の温暖な地域からどの作物をヨーロッパに持ち帰ったのだろうか?アフリカやアジアへは?その答えは単縦ではない。何を持ち帰るかに関して彼らが下した決定は、今日私たちが作物に影響を及ぼした。…コンキスタドールは多くの作物のなかから選択したが、後世のことなどまったく考えていなかった。理想を言えば、彼らは、自分たちが遭遇した未知の作物の、できるだけ多くの品種を持ち帰るべきであった。それには、味や、生育可能な気候や土壌、そしてもっとも重要なことに、病原体に対する病害抵抗性に関して、それぞれ特徴の異なる品種が含まれていたはずだ。ところが実際には、これとは正反対の事態が生じた。一例としてアンデス地方の根菜類を考えてみよう。ピサロがアンデス地方に到達したとき、インカ帝国では、10を超える根菜類の1万を下らない品種の根菜類が栽培されていた。ピサロと彼の部下たちは、現地民の妻たちが作った料理によって、それらのいくつかを食べていたはずだ。ところが彼らヨーロッパ人は、多様な根菜類のうち、ほんの一部だけを採集したのである。おそらくは、これらの品種のうち1万分の1がヨーロッパに持ち帰られたに過ぎない。(p44-45)

 こうした行為の何が問題なのでしょうか。そもそもピサロたちに「未知の作物」を持ち帰ろうという目的も、その資質や能力もなかったことが、最初の「エコロジカル・フィルター」(移動や繁栄を特定の種には許し、別の種には禁じる生息地の特性や、進化の過程における特定の段階の特性)となったと考えられています。つまり、彼らが現地で目にしたものの範囲で、食べられると認識し、かつ不味いと思われたものを排除したということです。さらに、ピサロたちに選ばれたジャガイモ(他の種子も含めて)には、移動という過酷な試練が待っていました。長期間、水夫の腰やラバのバッグに入れぶら下げられて打ち付けられ、ようやく太平洋岸の船に乗せられてパナマ地峡まで運ばれ、再び熱帯のジャングル地帯を陸路で数ヶ月間湿気にさらされる間に、ほとんどの種子や果物は腐ってしまったに違いありません。カリブ海沿岸に到達したものも、大西洋を横断するスペイン船の劣悪な環境のもとで、4ヶ月間、物理的な環境条件だけでなくネズミや昆虫に食い荒らされるリスクにさらされるのです。

 その結果、南米で栽培されていた25種類の根菜類塊茎作物のうちジャガイモだけがカナリア諸島に到達したのである。また、(9つの亜種から成る)アンデスのジャガイモの数千の品種のうち、数十品種のみがカナリア諸島に到達したに過ぎない。しかもそれらはすべて、Solanum tuberosumという亜種に属していたとみられる。そのわずかな品種のうち一握りがヨーロッパ大陸に到達したにすぎない。さらには、その一握りのうち生育期間が短く、その期間には日が長いアイルランドで順調に育ったのは、ランパーと他の2、3の品種のみであった。アイルランドにもたらされたランパー系統のうち選好されたのは、輸送のストレスに強く多産であるか、そのようなアイルランドの季節の特徴に合ったもののいずれかであった。その結果、アイルランドで栽培されるようになったジャガイモは、多産ながら多様性を欠き、害虫や病原体がいない限りで健全に育つという代物だった。(p49-50)

 さらに困ったことには、このジャガイモは「アンデス地方の農民が、何世紀もかけて蓄積してきた、栽培、生育、貯蔵、加工に関する伝統的な知識」を置き去りにして、「丸裸で」ヨーロッパに導入されたのです。例えば、アンデスの農民はジャガイモがいくら優れた作物だとしても、それだけを栽培する(モノカルチャー化する)ことはありませんでした。また、イギリス政府(鋤で耕す平坦な畑を推奨)がやめさせたアイルランドの伝統農法のように、畝を高く盛り上げることで病原体を殺すことのできるまで畑の温度を上げていました。決定的ともいえる違いは、アンデスの農民は種芋を真正種子(ジャガイモの花がつける種子)から育てていたのです。こうした伝統的なウイルス対策なしに作付けられたアイルランドのジャガイモ畑に、ジャガイモ疫病菌が持ち込まれたらひとたまりもなかったであろうことは明らかです。

 

バナナを救え!

 さて、いよいよ「なぜ、世界からバナナがなくなるのか」という問いを考えましょう。以前、「食育のチカラ(22)バナナは黄色い…」で取り上げたお話は、赤茶色のモナードという品種がユナイテド・フルーツ社が中南米のプランテーションで大規模に栽培する「黄色いバナナ」に凌駕されるというお話でした。しかし、その主役であるグロスミッチェルという品種をいま私たちはほとんど食べておらず、キャベンディッシュという「黄色いバナナ」に置き換わっているのはなぜなのかということです。ここには、ジャガイモが種芋(真正種子を使わない種芋)で栽培を続けることが、遺伝的に同一のものを広範囲に作ることになるということと同じ問題があったのです。栽培バナナは、吸枝(サッカー_地下茎から生えだす枝)によってクローン形態で繁殖します。優れた能力をもつバナナの標本から得られた挿し木が繰り返し植え直されたため、中南米のグロスミッチェルのほぼすべてが同じ遺伝子で構成されています。当然ながら、クローン栽培は経済効率性(市場性)の点では極めて有利なものですが、生物として見たときに致命的な欠点を抱えることになります。

 やがて起こるべきことが起こる。パナマ病菌(Fusarium oxysporum f. sp. cubense)と呼ばれる病原体によって引き起こされる病気、パナマ病が到来したのである。パナマ病は、1890年にパナマのプランテーションを破壊し始めた。この病原体の拡大を阻止する手段はなく、遅らせることすらできなかった。上空からは、ラテンアメリカ中のプランテーションの明かりが消えたかのように見え始める。やがて鮮やかな緑で覆われていた区画は黒くなり、風景全体が黒く見えるようになる。ホンジュラスのウルア谷だけで、パナマ病が到来したその年に、3万エーカーが感染し放棄された。またグアテマラでは、ほぼすべてのバナナプランテーションが壊滅し放棄された。というのも、パナマ病菌は、ひとたび到来すると何年も土壌に潜伏していられることがわかったからである(現在では数十年間潜伏することが判明している)。(p13)

 そこで、ユナイテッド・フルーツ社は「グロスミッチェルにそれなりに似ていて、かつパナマ病に対する病害抵抗性を持つバナナ」を必死で探したのです。そして、まさに幸運にもキャベンディッシュを発見するのですが、「キャベンディシュの味は、グロスミッチェルの味とは著しく異なる。『不自然な』味がし、グロスミッチェルに比べて甘味が足りない」という問題がありました。しかし、ユナイテッド・フルーツ社に選択の余地はなく、数百万エーカーにわたってキャベンディシュを栽培し、大規模な宣伝キャンペーンとともにアメリカに輸出したのです。「宣伝が非常に効果的だったため、キャベンディッシュは、かつてのグロスミッチェルに比べても大きな商業的成功を収めることができた」と評価されました。パナマ病に病害抵抗性をもつキャベンディッシュとはいえ、“不死身のバナナ”ではありません。本書でも、「パナマ病を引き起こす病原体の近縁種フサリウムの新たな株が進化したのだ。この株は、グロスミッチェルとキャベンディッシュの両方を殺す能力を持つ」(新パナマ病)と予測されています。

何が問題なのか…

 私もまったく知らなかったことですが、セイロン島(スリランカ)はかつて紅茶の島ではなく、コーヒーの島だったんですね。なぜ、コーヒー島が紅茶島になってしまったのか…。

 クローン栽培は、経済的な観点からすると画期的だが、生物学的な観点からすれば問題を孕む。その種の問題はすでに、19世紀のイギリスのコーヒー生産とその輸出に認められる。当時のイギリス人は、紅茶ではなくコーヒーを飲んでいた。植民地セイロンから輸入したコーヒーを飲んでいたのだ。セイロンでは当初、コーヒープランテーションは自然林のなかに造成されていた。1797年にオランダからこの地を奪ったイギリスは、島のコーヒー生産の拡大に着手する。コーヒープランテーションに対するイギリス人の投資は、国内でも海外でも「際限がなく、規模においてそれに匹敵するのは、その事業を託された人々の無知と経験のなさだけであった」。コーヒーの需要が増大すると、コーヒーの木は、大規模な単一栽培(モノカルチャー)の形態で植えられるようになった。つまり、広大な領域にたった1種類の品種が植えられるようになったのである。この丘にもあの丘にも。こうして野生種に近い背の高いコーヒーの木は見られなくなり、中央高地の16万ヘクタールの土地に単一品種のコーヒーが栽培された。そしてコーヒーは、銀行、道路、ホテル、ぜいたく品などの形態で真の繁栄をもたらし、その成功には限りがないように思われた。 1887年にセイロンを訪れたイギリスの菌類生物学者ハリー・マーシャル・ウォードは、単一品種の大規模栽培によって引き起こされる問題について農民に警告した。害虫や病原体がひとたび侵入すれば、コーヒー園は壊滅するだろう、と。ウォードの考えでは、そのことはセイロンにすでに到来していたコーヒーさび病にとりわけ当てはまるが、その他の害虫や病原体にも言えた。その種の害虫や病原体がコーヒーの木をむさぼり尽くすのを阻止する手段はなかった。というのも、栽培されていたコーヒーはすべて同一品種だったため、いかなる脅威に対してもあらゆる木が同じ脆弱性を持ち、しかも互いに近接して植えられていたからだ。事実、まさに予想どおりのことが起こった。セイロンのコーヒープランテーションは、コーヒーさび病によって壊滅的な打撃を受け、それに続いてアジアやアフリカの多くの地域でも同様な事態が発生したのである。かくしてコーヒーは、紅茶に植え替えられた。(p11-12)

 これは、コーヒーがダメなら紅茶に、ジャガイモがダメなら◯◯に、バナナがダメなら△△に、という話ではないことはすぐに理解できると思います。本書にはこの他に、キャッサバ、カカオ、コムギ、天然ゴムが取り上げられています。これは決して特定の農作物に限った特別な話ではないことが問題なのです。

 人類は今、多様性を徐々に失いつつある食物に依存して生きている。2016年のカロリー供給は、世界のどこでも、かつてないほど限定された食物に依存するようになった。これまで科学者は、30万種類を越える植物を命名し研究してきたが、人類が消費しているカロリーの80パーセントは12種、90パーセントは15種の植物から得られているにすぎない。限られた食物への過度の依存は、地球の風景を単純化してきた。現在では野生の草原よりもトウモロコシ畑のほうが、総面積が広い。(p7-8)

 さて、科学者たちはなぜ多様な種の保存・保全を重視するのか。1万年ほど前に人類が始め、私たちを大いに繁栄させてきた農耕・牧畜というあり方そのものに、モノカルチャー(種の画一化)という宿命的な生物としての脆弱性があったということになります。私たちの世界(グローバルな世界)は、その傾向をますます加速しています。これまでなんとか(幸運も含めて)科学や技術の進歩によって凌いできたやり方が、これからも通用するとは限らないのです。生物(種)の多様性は、その淘汰も含めて数十億年かけて地球という星が生みだしてきた法則であり、これを私たちが乗り越えることができるのか。たとえ、それができたとしても、果たして間に合うのか。改めて、考える必要があります。

朝岡 幸彦(あさおか ゆきひこ / 白梅学園大学特任教授/元東京農工大学教授)

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