知ってなるほど 教授のお話し 食育のチカラ

vol.36家畜をめぐる「不都合な真実」にどう向き合うのか? ~食と食育を考える100冊の本(18)

メラニー・ジョイ『私たちはなぜ犬を愛し、豚をたべ、牛を身にまとうのか』青土社、2022年

メラニー・ジョイ『私たちはなぜ犬を愛し、豚をたべ、牛を身にまとうのか』青土社、2022年

  動物倫理学で問題とされる家畜の飼養や屠殺を、社会心理学者であるメラニー・ジョイは「カーニズム(肉食主義)」と呼び、「ヴィーガニズム(脱搾取主義)」と対置します。本書(2009年に初版)は(工場的畜産に代表される)畜産業界の「不公正」とそれを内面化してきた私たちの社会と意識を転換することで、「動物への搾取」のない世界を求めています。

 次に述べるような情景を、頭に少し思い浮かべてみてください。あなたは今、優雅な晩餐会に招待され、他の招待客たちとともに美しくセッティングされたディナーテーブルについています。部屋は暖かく、ロウソクの光がワイングラス越しにちかちかと揺れ、招待客同士の会話ははずんでいます。キッチンからは豪華な食事の美味しそうな香りが漂ってきます。あなたは今日まだ何も食べておらず、お腹がぐうぐう鳴り始めています。
 待ちに待った瞬間がきました。ついに、晩餐会の主催者である友人が美味しそうな香りのする熱々のシチュー鍋を持ってやって来ました。肉、香辛料そして野菜の香りが部屋中に充満します。あなたはシチューをたっぷりと自分の皿に取り分け、柔らかい肉を堪能した後、友人に調理法を尋ねました。
 「喜んで教えて差し上げるわ」と彼女は答えました。「まず二キロのゴールデンレトリバーの肉によく下味をつけて、それから…」ゴールデンレトリバー? 口の中にある肉は犬の肉だ、ということに、あなたはおそらく頬張りかけた肉の塊を口に含んだままゾッとして固まってしまうでしょう。(p20-21)

 日本で犬肉を食べる文化はすでに失われているはずですが、私たちもこれほどの嫌悪感をもつのかは分かりません。しかし、ペットとしての愛犬に接している人たちには、おそらくとても嫌な気持ちになることは明らかでしょう。すでに、私たち日本人の多くも犬を食肉としてではなく、伴侶(友だち、家族)として認識しており、とても気まずい雰囲気になることは間違いありません。

 でも友人が、今のは悪い冗談だったと言って笑い出したとしましょう。結局、肉はゴールデンリトリバーではなく牛肉だったのです。それを聞いて今度は、目の前にあるシチューをあなたはどう捉えますか? また食欲が湧きますか? 一口目で感じたのと同じくらいの喜びをもって、再びシチューを口に運びますか? あなたと友人とのやり取りの間もそのシチュー自体にはなんら変化が起こったのではないことが頭では分かっていても、気持ちの上で何とも言えない不快感を覚えるきっかけになりました。そしてその感情は尾を引き、今後ビーフシチューを目にするたびに、その不快感が湧き起こるかもしれません。(p21-22)

 これは「認知」の問題であり、それを「それらの肉が物質的に違うからではなく、それぞれの肉への認知が異なるために異なる反応をする」のだと説明します。ここに社会心理学者としての筆者の独自性があるといえるでしょう。

カーニズムの「神話」

 触れ合い動物園で子豚や子牛、ヒヨコに餌を与えて撫でていた子どもや大人が、途中のスーパーや食料品店で「ハム、鶏肉、チーズでショッピングバッグをいっぱいにして帰途につく」ことの矛盾を筆者は指摘します。

 ほんの数分前に撫でていたまさにその動物の肉、卵、乳製品を食べるために、動物を食べることは正しいことなのだと、自分たちがしていることを意識しないために完全に信じ込まなければならないのです。この目的のために私たちが教え込まれるのは、カーニズムのシステムを維持させている一連の神話を信じること、そして自分自身に言い聞かせる物語に矛盾点があったとしてもそれを無視することです。暴力のイデオロギーは、虚構を事実として行き渡らせることと、その真実を暴く脅威となりうる批判的な考えを阻止することによって成り立ちます。 肉食に関する神話は膨大な数に上りますが、それらすべての神話は何らかの形で私が呼ぶところの「正当化の三つのN」に関連づけられています。正当化の三つのNとは、動物を食べることが普通(Normal)で自然(Natural)で必要(Necessary)であるという考えです。(148-149)

 この三つのNが奴隷制度からホロコーストにまで及ぶ「搾取的な体制の正当化のために使われてきた」ものであり、こうした「イデオロギーがついには崩壊すると、人々は途端に三つのNを愚かに感じ始める」と指摘します。

 三つのNは社会意識に深くしみ込んでいるので、私たちの行動はそれについて考えることをしないまま導かれます。いわば三つのNが私たちに代わって思考しているということです。私たちは三つのNを完全に自分自身のものとして内面化しているので、その主張に沿って生活するのは、まるで、広く受け入れられている見解に従っているというよりも、普遍的な真実に従っているかのようです。(149)

 みなさんも、この「三つのN」がさまざまな差別や虐待、暴力を許す可能性をもつ一つの仕組みである可能性は否定しないと思います。ただし、これが人に対する差別や暴力ではなく、人以外の動物に向けられたものであることをどう感じるでしょうか。ここで、こうした考え方を極論で非現実的であるとか、社会の枠組みを破壊するものであり、馬鹿げた意見だと一蹴しないで、もう少しお付き合いください。

肉を食べるのは普通のことである

 こうしたイデオロギーは「社会規範」になることで、「どのように行動すべきか」という指示も与えるとされます。こうした行動様式の規範は「私たちが進むべき道を敷き、そこになじむためにはどう振る舞ったらいいかを教えることによって、私たちを従わ」せるのです。このような「規範の作った道は最も楽な道」だとされます。

 彼らが言うところの「選択の自由」は事実上、与えられる選択肢として挙げられる狭い範囲に限られた中からの自由に過ぎません。ある種の人間でない生き物よりも人間の生命の方がはるかに尊いと教え込まれてきたために、他の種だって生きたいのに、人間がそれをおいしく思うからといってそれを殺して食べることを適切であるように考えてしまうのだと言うことに気がついていません。最も楽な道を確立することによって、行動様式の規範は別の道をあいまいにし、あたかも他の方法はないかのように見せかけます。…肉を食べることは選択の結果ではなく、すでにあらかじめあることとされているのです。(163)

 確かに肉食することは「楽な道」なのかもしれません。しかし、欧米とは異なり(お隣の中国・朝鮮も含めて)、江戸時代まで肉食(魚食は除く)を主として来なかった日本の社会で肉食がそこまで大きな社会規範となっているのかは疑問の余地があります。とはいえ、現代の日本社会でもヴィーガン食(とりわけ乳製品や卵、動物性油脂やチキンブイヨンも含めて排除する)を探すのは容易ではないように思います。

 行動様式の規範が私たちを管理するもう一つの方法は、規範に従うことを褒め、そこから外れたら罰を与えるというやり方です。肉を食べることは実際にも社交的にも食べないことよりも楽な生き方です。…ヴィーガンはヴィーガンであることを説明しなければならなかったり、自分の食べる物について釈明したり、時にまわりの人に不便をかけて申し訳ないようなことまで言わなければならないこともあります。…ヴィーガンたちは、そのとても繊細な心を傷つける先入観的イメージとまわりの人たちの態度によって常に攻撃される世界に生きなければなりません。そうしたことを考えると、最も楽な道を避けるより、肉食の大多数に従うほうがはるかに簡単というわけです。(163-164)

 日本社会でもまわりの人たちに自分がヴィーガンであることを表明して、野菜と穀物しか食べないと宣言することにはかなり勇気がいるかもしれません。ヴィーガンをより徹底すると、魚食(魚を食べること)も考え直さなければならないかもしれないのです。

肉を食べるのは自然なことである

 ヒトが進化の過程で「雑食動物」として肉を食べてきた事実を認めたうえで、それが「人間にとって自然である」とは断定できないと述べています。「自然である」こと(自然化)は、その思考や行為を「正当化できる」ことであり、自然化することで「自然法則に沿っている」とされるのです。

 行動様式の規範と同様、自然化された行動は多くの場合作り出されたものですが、「自然の階層」の頂点に立つと考える人々によって構築されたことはなんら不思議でもありません。…あたかも自然によって人間に食べられるために生み出されたかのような動物を私たちは何と呼んでいるのでしょう?家畜、ブロイラーチキン、乳牛、採卵鶏、そして食用仔牛などです。…カーニズムの中核となる正当化の根拠の一つは、いわゆる食物連鎖と呼ばれる自然の秩序です。人間は食物連鎖の「頂点」に立つと考えられていますが、鎖ですから定義的には連鎖に頂点はないのです。もしあったとしても、そこには人間のような雑食動物ではなく肉食動物が鎮座していることでしょう。(166-167)

 確かに家畜と呼ばれる動物は、野生動物の一部を人間の都合に合うように改良したため、自然界にはじめから存在するものではありません。問題は、この「家畜化」された動物を道具のように扱って良いのかということだと思います。ジャレッド・ダイアモンドが指摘したように、農耕とともに家畜を飼養した牧畜の発展が文明の進歩に大きな役割を果たしたという事実は否定できません。だからといって、これからも永遠に家畜を「命のある道具」として扱って良いのかどうかは考える余地があります。例えば、馬の役畜(人間の作業を手伝わさせる家畜)としての利用は現代社会では機械に置き換えられることで、ほとんど存在しません。馬は競走馬やスポーツとしての乗馬を含めて考えても、犬のような伴侶動物としての役割に変化しているように思われるのです。

肉を食べるのは必要なことである

 肉食動物は他の動物の肉を食べなければ生存できません。雑食動物がなぜ肉を食べる必要があるのか、それはおそらく肉を食べなくても生存できるにもかかわらず、肉を食べるほうが栄養効率がよく生きるうえで好都合だからと考えられます。ヒトの近縁種である霊長類が雑食性であることは確かでしょうが、もともと肉なしで生きられない動物ではなかったであろうと推測されるのです。他の霊長類に比べて圧倒的に大きな脳という器官を発達させてきたヒトは、その大きな脳を維持するために肉食が必要であったとも考えられるのですが、だからといっていまも「肉を食べるのは健康のためだ」と言い切ることはできないのです。人が農耕・牧畜を始める前の野生種の穀物や野菜を食べるだけでは、おそらく生きていけなかったでしょう。それから1万年以上が経過して、私たちが口にする植物食材のほとんどが(もしかするとすべてが)人の手によって改良され、収穫量が飛躍的に多く、栄養価の高い栽培種に置き換わっているのです。だから、ヴィーガンやベジタリアンとして生きていくことができるのではないのでしょうか。

 肉を食べるのは必要だという信条は、肉を食べるのが自然だという信条と密接に関連しています。もし、肉食が生物学的に必須であるならば、人類が生き延びるために必要だということでしょう。すべての暴力的なイデオロギーと同じように、この信条システムはシステムの中核であるパラドクスを反映しています。すなわち殺すことは、他の種の犠牲によってでも、一つの種が生き延びるというより偉大な善のために必要なのだ、というパラドックスです。肉を食べるのは必要だという信念が、システムを当然あるべきものと思わせます。もし、私たち人間が肉なしで生きていけないのなら、カーニズムを廃止することは自殺行為のようなものです。私たちは、肉を食べなくても生きていけることを知っていますが、システムが肉食が必要だという神話を真実であるかのように発信し続けます。(168-169)

 また、私たちのいまの経済が家畜の肉や乳、卵などに依存していたとしても、それは絶対に変えられないものなのでしょうか。石炭や石油などの化石燃料に依存した工業社会の転換を求められているいま、私たちは再生エネルギーを中心としたエネルギー転換を進めざるを得なくなっています。牛のゲップ(メタンガス)が地球の温暖化を加速しているという事実はあるにしても、SDGs(持続可能な開発目標)に「動物の権利を守ろう」という目標がないからといって、この問題に永遠に目を閉ざして良い理由にはならないような気がするのです。

 おそらく、動物性食品とどういう関係性を持つかというパターンは、おしゃべりができるようになる前に既に刷り込まれ、あなたの人生の中で一度たりとも揺らぐことがないままで生き続けてきたことでしょう。そして、まさにこの中断されることなく続く行為の流れの中で、どのようにしてカーニズムが私たちの自由な意志を洗い流してしまうのか、見て取ることができるのかもしれません。みずらかの意志で人生を歩み始めるずっと以前に構築されるこの思考と行動パターンは、私たちの心に紡ぎ込まれ、見えざる手のように私たちを導くのです。そして、動物性食品に対する私たちの習慣的な振る舞いを邪魔する何かが起こった時ー例えば屠殺の工程を一瞬見てしまった時などーカーニズムの防衛機制をつかさどる精巧なネットワークが、私たちを迅速にそこから遠ざけます。カーニズムは私たちに意識的に考えようとするのを邪魔するのです。(174)

 私たちのほとんどは、産業動物(牛や豚、鶏などの家畜)がどのようにお肉になるのか、大量の乳を出すのか、ほとんど毎日タマゴを産み、そしてどうなるのかを知りません。頭では理解していても、少なくとも家畜が屠殺される場面を(映像であっても)見たら嫌な気分になることは間違いないのです。私が「家畜たちの“不都合な真実”」と呼ぶ事実から目をそむけることで、(無用な)罪悪感から解放されているとも考えられるのです。

「自然の権利」の視点から見ると…

 おそらくカーニズムを批判し、「ヴィーガンになろう」と主張する候補者は、アメリカ大統領にはなれないでしょう。同様に、日本でも「肉を食べるのをやめよう」と公約に掲げた政党は政権を握れないと思います。確かに一切の動物由来の食べ物を排除しようとする主張は、いまの私たちには極端でとても受け入れることのできないものだと思います。しかし、このカーニズム批判が「動物の権利」と呼ばれる私たちの権利概念の延長上に位置づいているものであり、いずれ向き合わざるをえない問題なのだと思ったほうが良いのです。

 大多数の人々は今でもこのような考え方は信用できないものとしている。しかし、で図式化された変化に目を向ければ、アメリカの入植者に対する独立の容認、奴隷解放、インディアンの権利の尊重、白人と黒人の学校の統合、憲法への平等権に関する修正条項の追加などに関する最初の提案がどれも不信感にさいなまれていたということを歴史家は知っている。ジョン・スチュアート・ミルが述べていたように、「偉大な運動はどれも、次のような三つの段階、すなわち、①あざ笑い(ridicule)、②議論(discussion)、③採択(adoption)を経験しなければならない」と。 クリストファー・ストーンが指摘しているように、この過程で発生することは、<考えられないこと>が慣習的なものとなるのである。しかし、図2の出来事からもわかるように、激しい変化が起こることはよくある。(ロデリック・F・ナッシュ『自然の権利』ちくま学芸文庫、1999年、37)

 未来への「宿題」がまた一つ増えたような気がします。

朝岡 幸彦(あさおか ゆきひこ / 白梅学園大学特任教授/東京農工大学名誉教授)

最近のお話