知ってなるほど 教授のお話し 食育のチカラ

vol.38「憎むべき不快なにおいを放つ液果」のその後 ~食と食育を考える100冊の本(20)

ウィリアム・アレキサンダー『世界を変えた10のトマト』青土社、2022年

ウィリアム・アレキサンダー『世界を変えた10のトマト』青土社、2022年

 トマトがヨーロッパ大陸に持ち込まれた時、ある理由から「トマト」「トマティーヨ」と混同されていたようです。いまでは似ても似つかないこの二つの果物(野菜?)が、1600年代のトマトとトマティーヨの形がやや似ていたことやアステカ人が現代のように「甘く、酸味の少ない」改良される前のトマトよりトマティーヨを好んでいたことが一つの原因だと考えられています。

 実際、16世紀のスペインがトマトにした主な貢献は、それを「発見したこと」を除けば、トマティーヨと混同したことだと言えるだろう。アステカ人はトマトをシマントゥルと呼び、(その遠縁にあたる)トマティーヨをミルトマトゥルと読んだ。それぞれの語源であるtomatl(トマトゥル)は「丸い果物」の意味で、ふたつの品種を区別するために接頭語が付けられていた。残念ながら、16世紀のスペイン人の著述家は語根だけに目をつけ、その両方をスペイン語でtomate(トマト)と呼んだのだ。(p20-21)

 問題は、このトマティーヨの実以外の部分が有毒であるということです。もちろん、トマトも実以外を食べることはなく、この植物のどこを食べれば良いかわからずに「食通の中には、葉をむしゃむしゃ食べて、これは食べられた代物ではないと断言した者」もいたそうです。また不幸にして裕福な貴族が使用していた錫合金の食器からトマトが鉛を溶け出させたり、有毒のベラドンナに似ていると思われたため「poison apple」(毒リンゴ)と呼ばれて観賞用以外には使われなかったようです。さらに、ルネサンス期に再評価された古代ギリシャの医師・ガレノスが採用していた「四体液説」によって、トマトは「冷と湿」に区分されて「おそらく最高レベルの冷たさ」をもつ「危険で有害な」ものと忌避されたそうです。
 こうしてトマトは、その後、数百年間にわたって欧米の食卓に上ることはなかったのです。

伝説と偽薬と缶詰がトマトを救う!?

 これまで見てきた新大陸原産の野菜と同じように、トマトも旧大陸になかなか受け入れられませんでした。そこに、面白い伝説が誕生します。

 「憎むべき不快な」ものから、なぜ一年中栽培される植物のなったのだろうか?どうやらポモドーロ博物館にも及んでいるらしいひとつの逸話によって、1820年9月26日が、トマトが植木鉢から夕食の皿へと飛躍した日として祝われている。この日こと、ニュージャージー州セイラムのロバート・ギボン・ジョンソン大佐が郡裁判所の階段の最上段にのぼり、トマトは無害であるばかりか美味でもあるということを市民に証明するために、「ジャージートマト」とも呼ぶべきバケツ一杯のトマトを食べ切って、集まった群衆を震え上がらせたと言われている日だ。(p36)

 ご多分にもれず、この伝説には、のちの人々の曖昧な記憶と書き加え、思惑が盛り込まれています。地味な記録の加筆や改ざんに決定的な役割を果たしたのが、シックラーという人物がCBSラジオ『ユー・アー・ゼア』という番組に出演して吹聴したことでした。しかしながら、この人物が話の根拠としていた「その出来事を目撃した」とされている人自身が、伝説を否定するかのように「トマトは1829年に、フィラデルフィア出身の女性たちによってニュージャージー州セイラムにもたらされた」と缶詰業界の小史に書いているのです。  セイラムのトマト伝説の真偽はともかくとして、「トマトの幸運は、熟練した偽薬セールスマン、健康食品としてのトマトの突然の評判、そしてパンデミックという、三つの要素のあり得ない融合」にあったようです。

 1830年代という不穏な10年で、アメリカは「健康」とその対極にあるものを突然発見することとなった。市民健康運動が、当時アンドリュー・ジャクソン大統領の反エリート主義的見解をきっかけに起こり、本格的に稼働していた。… 健康的な生活に対するこの突然の関心は、ヨーロッパ全土に広まっていたコレラの大流行によって拍車がかけられた部分もある。…コレラの原因はいまだ解明されておらず、予防策も見つかっていないが、栄養価の高い食事を摂り、清潔な生活を送ることによって大事には至らずに済むと合理的に片付けられた。…オハイオの巡回医師ジョン・クック・ベネットは、トマト主義者としてその名を馳せていた。…いまだ一般的に受け入れられていなかったこの野菜に対して、健康を促進し胃や腸のさまざまな病気を防ぐことができるというベネットの主張は、報道機関に盲信的に受け入れられ、アメリカの200紙を下らない新聞で繰り返し印刷された。読者が特に関心を抱いたのは、「栄養素の中で最も健康的な一品」であるトマトは、「コレラの攻撃をかなり受けにくくすることができ……ほとんどのケースでそれを防ぐことができる」という彼の確信だった。(p44-45)

 このベネットの評判に目をつけたのがアーチボルト・マイルズという「偽薬(sanke oil)セールスマン」でした。彼は、自分の売っていた「万能」特許薬の名前を「ハイジーン」ピルから「トマト抽出」ピルに変えて<マイルズ博士のトマト配合抽出薬>のラベルを貼って売り始めたのです。こうして競合製品である<フェルプス医師のトマト配合錠>との泥沼の闘いは、別の競合商品も巻き込みながら新聞に多くの広告を載せることになったのです。このトマト錠剤市場は(そのいかがわしさとは別に)1837年恐慌で「健康万能薬はほとんどの人が買えないほどの贅沢品になった」ことで崩壊します。
 その後、アメリカにおけるトマトの生産は1800年代を通じて急上昇し、収穫ピークをずらすことで少しでも高く売ろうとする農家は「早生トマト」の栽培に努力します。それでも解決されない収穫ピーク時の価格崩壊の救済策となったのが、あのナポレオン・ボナパルトが採用した食品保存法でした。当初はガラスの瓶詰食品であったものを、ピーター・デュランドがアペールの発明を改良して「ブリキで裏打ちした鉄製の缶」に変え、1855年にロバート・イエーツが「この忌々しい代物をこじ開ける手段」を発見したことで新たな展開が生まれたのです。

 それは南北戦争になんとか間に合った。世界初の「缶詰」戦争中、北軍は缶詰食糧保管所から最低限の缶詰を旅の友にすることを兵士に許可し、兵士たちが地元の不親切な店に立ち寄って物を強奪しないようにした。小麦粉など、乾燥食品以外の供給品を求めて郊外をくまなく探さなければならなかった南軍の兵士は、闘いに勝ったときは、北軍の食糧保管所の貯蔵室を襲撃し、栄養失調を満たすべく、北軍の缶詰肉や缶詰野菜を貪り食った。
 こうして南北両軍の多くの兵士が戦争中に缶詰トマトを初めて味わい、その味覚を養い、帰還してからもこの缶詰を求めた。戦争は、トマトと芽生えつつある缶詰産業の両者にとっての恩恵であることが証明された。(p54-55)

 とはいえ、肝心の缶詰の缶をつくる作業やトマトの加工が手作業であったことから、「製造の限界を反映したわずかな量」にとどまっていました。その後、ベルト駆動の缶詰機械が発明され、「缶詰プロセスの自動化」が進むことで、ようやくトマトの缶詰製造の「指数関数的な成長」が実現できたのです。
 生産量が増えるにつれて新たな問題が次々に生じます。ジョーゼフ・キャンベルが買収した会社の目玉商品である「ビーフステーキ」トマトがあまりにも大きくて「たったひとつで缶がいっぱい」になってしまうのです。キャンベル社の支配権を手に入れたアーサー・ドランスのいとこのジョン・ドランスは「キャンベル社の缶詰商品を、他のどこからも手に入れられない真にユニークな商品にする方法」を見つけます。

 彼が出した答えはトマトスープだった。正確に言えば濃縮トマトスープだ。この用語は少しばかり誤解を招きやすい。濃縮スープと言えども、実際にスープを「濃縮」して─スープから水分を取り除いて─作ったものではないからだ。むしろ最初から水を加えないで作る。にも関わらず、濃縮スープの販売には多くの利点があった。缶のサイズを小さくすることができるので、製造やラベル、出荷に関わるコストを抑えることができ、食料品店にせよ、家の食器棚にせよ、置き場所に関してもあまりスペースを取らないで済む。スープの販売から1年もしないうちに、キャンベル社は再び潤い始めた。 新製品には新しいラベルが必要だった。…1897年の感謝祭の日におこなわれたアメリカンフットボールの試合では、ペンシルベニア州がコーネル大学のホストとなってり、参加したファンの中に、キャンベル社の社員で後に会計を担当することになるハーバートン・ウィリアムズがいた。ゲストチームであるコーネル大学の大胆な赤と白のユニフォームに目を奪われた彼は、オフィスに戻ってから、新しいラベルの色としてはこの二色が理想的なのではないかと提案した。上司はこれに同意し、それから2ヶ月足らずのうちに、これが新しいデザインとして採用された。以来、このロゴはほぼ変わっていない。(p60-61)

 こうして、アンディー・ウォーホルキャンベル缶の作品へと続くほどに、このラベルは「親しみ」やすいものとなっていたのです。

サンマルツァーノの奇跡

 やはりトマトといえば、イタリアをイメージするのは私だけでしょうか。アメリカでの成功の少し前、18世紀にはトマトがイタリアでも受け入れられるようになり、『礼儀正しい料理人』(1773年)にもイタリア全土のさまざまなトマト利用法が登場します。しかし、…

 これらは特権階級のレシピであり、トマトが最も大きな影響力をもっていたのはキジバトに和えるものとしてではなく、南イタリアやシチリアの貧しい人びとの必需食品としてだった、という事実が覆い隠されてしまっている。こうした地方では、小作農は主に野菜を食べて生活していた。どんな種類であっても、肉はなかなか食べられない贅沢品で、それは「百姓が鶏肉を食べるのは病気のときか、ニワトリが病気のときだけだ」というイタリアの諺が示しているとおりだ。トマトが食卓の重要な一部となったのにはそれなりの理由があった。たくさん実がなり、そこそこ栄養があり、ともすると単調な色味になりがちな食事に明るい差し色を添えることができるからだ。(p70-71)

 こうして19世紀初頭には南イタリアが「トマト王国」となったものの、「栽培期間が短いのに、その期間にものすごい勢いで成長する」という「やっかいな特性」を克服するために、つまり「一年中トマトが食べられる方法」を探さなければなりませんでした。一番手っ取り早い方法は実が青いうちに茎ごと抜いて吊るしておくことですが、ピクルスにする方法や乾燥トマトにする方法もあります。ところが、「保存食としてのトマトを、生のトマトとは異なる個性と役割をもつそれ自体を目的とする食品」に変える方法が発明されます。

 それがトマトペーストだ。 南イタリアの主婦は、トマトを濃いペースト状に煮詰めれば保存ができることを発見した。…完熟トマトをアウトドア用の大きなバットの中でコトコト煮て濃厚なソースにし、これを漉して種と皮を取り除く。この濃いドロドロとしたソースを板の上に薄く広げ、数日間、天日に干す。そして…乾燥アプリコットと同じくらいの濃度になったら、黒いジャム(コンセルヴァ・ネラ)と呼ばれる半透明の板状にして油紙に包んで巻くか、一塊に成形する。スープやシチュー、ソースに風味を加えるために利用されるこの栄養価の高いジャムは、非常に濃度が高いため、大きなスープ鍋にティースプーン一杯入れるだけでじゅうぶんな風味が加わる。1850年にアメリカの新聞に掲載されたラ・スペツィアという街から生まれたレシピには、コンセルヴァ・ロールは「数年間保存が効く」と書かれていた。(p72)

 アメリカに引けをとらないほど発展したイタリアの缶詰産業で、「イタリアの缶詰トマトの代名詞」とされるブランドが「チーリオ」(チリオ)です。創業者であるフランチェスコ・チーリオは、缶詰用に適した特別なトマトを栽培しようとしました。

 この新しい缶詰トマトは、それぞれの生みの親が持つ最高の品質を備えているように見えた。洋ナシよりも長くてスリムな形は、缶詰に最適だった。種もほとんどなく、芯も非常に小さく、皮が薄くて剥きやすく、皮を剥いて加工してもぐちゃぐちゃにならず、形を保っている(イタリアのプラムトマトはほぼ必ず皮を剥いて缶詰にする)。しかし最も重要なのは、このトマトは缶詰になっても味がすばらしく、同時代のものよりも甘くて酸味が弱いという点だ。(p77)

 この特別なトマトこそが「サンマルツァーノ」なのです。このトマトの登場は、第一次世界大戦後のイタリアで「トマトの加工と輸出の爆発的急増は、この貧しい農耕地帯と貧困に苦しむナポリ市のみならず、イタリア経済全体を大いに押し上げた」と評価されているのです。

まだまだ続く、トマトの話

 トマトの缶詰、トマトスープ(キャンベル)、トマトペーストとくると、次はトマトケチャップとなるのではないでしょうか。トマトケチャップは缶詰トマトの副産物(つまり廃棄物)から生まれました。

 トマトケチャップの最初のレシピは、1800年代初頭になってようやく現れ、市販のケチャップは南北戦争後に初めて一般的なものになった。これは缶詰トマトが新たな人気を獲得したことによる直接的な結果である。ホールトマトの缶詰を作る際、業者は通常、病気をもっていたり虫食っていたり熟していなかったり腐っている果実を取り除いて床に投げ捨て、最後はほうきで掃いてホースで排水溝へ流し、廃棄していた。ところがトマトケチャップは、缶詰業者が切り屑とか廃棄物とか残り滓などと称するものを床から一掃する便利なーそして生産的なー方法を提供したのだ。だが発酵させ、煮立てた上で上澄みを掬い、香辛料で味付けしてできる調味料は、茶色くていかにも食欲をそそらない色合いだったため、悪名高いコールタール染料などの人工着色料を使って鮮やかな赤色が加えられ、ケチャップになった。(p147)

 それぞれの缶詰トマトの工場が副業としてトマトケチャップを製造し、1915年頃には800の数倍はあったと考えられる自社ブランド製品が存在したこともあり、この頃には「この国(アメリカ)のどの食卓にも」ある「国民的調味料」と認識されていました。激しい競争でトマトケチャップのブランドが淘汰される中で、もっとも成功を収めていまも残っているものが「ハインツ」です。創業者のヘンリー・J・ハインツは、最初の会社(ハインツ・ノーブル&カンパニー)の時代(1873年恐慌で倒産)から品質の良い「プレミアム商品」は成功するという確信をもっていました。

 ケチャップビジネスを始めるには、トマトの残り滓を撤去したいと思っている缶詰工場と大きな樽がいくつかあるだけでじゅうぶんだ。ホースラディッシュと異なり、何も育てる必要がない。ハインツはハインツ・ノーブル&カンパニーが倒産する前、会社の製品ラインに追加された最後の製品だったが、ヘンリーは今、それに全霊で取り組み、三種類の品物で市場に参入した。それは、よいもの・・・・よりよいもの・・・・・・最もよいもの・・・・・・だった。彼のプレミアムケチャップはほとんどトマトをまるごと使うもので、1ボトルあたり6〜7ドルで売られ、競合他社のケチャップの倍の値段だった。だがハインツは経験上、家の台所でホースラディッシュを作るのが面倒だとしたらケチャップをもっと面倒だということを知っていた。トマトを剥いて、カットして、種を取って、ドロドロになるまで潰して、何時間もグツグツ煮込まなければならないのだから。…1901年、ハインツのある従業員は会社の社報で、若い社員にこんなメッセージを送っている。「あなたたちは一世代も後に生まれたことで、ケチャップが焦げ付かないようにとにかくかき回しつづけている間に、ゼリーが沸騰したり、顔や手が熱さに耐えられなくなったりといった悲惨な目に遭わなくて済んで」どれほどラッキーだろう、と。(p153-154)

 トマトケチャップの高い品質で成功を収めたハインツに、次の課題が降りかかってきます。「ケチャップなどの加工食品に保存料を自由に、規制なく使用していることが、この国の主任化学者ハーヴェイ・ウィリーの目に留まった。これらの添加物は安全なのか?」

 トマトケチャップは人工保存料を世に知らしめた最も初期の食品のひとつだった。つぶしたトマトはすぐさま発酵が始まるため、ケチャップはほんの数日間しかもたなかったからだ。調味料としてのケチャップは、ある一定期間内に少量ずつ使うことが意図されていたため、クルミやマッシュルームやアンチョビから作られたケチャップを使っていた消費者は、トマトのケチャップにも同じくらいの保存期間を期待した。(p158)
 …ハインツケチャップは、いついかなるときも保存料に頼ってきた。最初のものが柳の樹皮で、これはドイツの科学者らが1874年に合成方法を見出した天然保存物のサリチル酸が含まれている。その後ハインツは大量のホウ砂の堆積物がカリフォルニアで発見された後はホウ酸に切り替え、最終的にドイツの化学者らがコールタールから抽出する方法を発見してからは、安息香酸ナトリウム(安息香酸塩類)へと切り替えた。つまりハインツのケチャップには石炭からとった、ひとつではなくふたつの・・・・成分─保存料と染色─が入っていたということだ。(p159)

 ところが、こうして始まった「安息香酸塩戦争」は意外な結末を迎えるのです。いま我が家にある「カゴメトマトケチャップ」の原材料名には「トマト(輸入又は国産(5%未満))、糖類(砂糖・ぶどう糖果糖液糖、ぶどう糖)、醸造酢、食塩、たまねぎ、香辛料」と記載されています。安息香酸ナトリウムは使われていないのです。それでも1年以上の賞味期限(開封前)が保証できるのは、120年前にはなかった冷蔵庫が家庭にあること、そしてハインツが「添加物の入っていないケチャップ」をつくることに「成功」したからなのです。その鍵は完熟トマトに多く含まれるペクチン、「それ自体が天然保存料の役目を果たす・・・・・・・・・・・・・・・・・」ということを発見したのです。さらに、ケチャップ専用のトマトの品種を開発し、保存料を使わないようにするためにペクチン、砂糖、塩、酢を劇的に増やしたことで「ケチャップは甘塩っぱいものから甘いものに、薄いものから濃いものへ」と変わったのです。「濃いケチャップ」はこの時に生まれました。
 さて、トマトにまつわる興味深い話はまだまだ続きます。この続きは、本書をお読みいただくのがよいでしょう。

朝岡 幸彦(あさおか ゆきひこ / 白梅学園大学特任教授/東京農工大学名誉教授)

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