vol.31食べることは技術である。それを学ぶか、学ばないか。 ~食と食育を考える100冊の本(13)
ビー・ウィルソン『人はこうして「食べる」を学ぶ』原書房、2017年
ビー・ウィルソンは、「わたしたちがふだん口にしているものは、あたりまえだが過去にそれを食べることを学んだものばかりである」と指摘します。確かに…
人生の最初の年から、人間の味覚は驚くほど異なる方向で発達していく。雑食動物のわたしたちには、安全に食べられるものを生まれながらに見きわめる能力はそなわっていない。自分たちが入手できる範囲で、なにが食べられるのか、それぞれが五感を駆使して見つけだす必要がある。…わたしたちは呼吸する方法を本能的に知っている。しかし、食べることはそうではない。それは学んで得られるものなのだ(p3)
子どもも大人も食習慣に関して、新奇恐怖症があるようです。「健康的な食べ方を身につけられない人が多いのは、別の方法を学んだ経験がないためである。子供と同じく、たいていの人は自分の好きなものを食べるし、知らないものは好きにはなれない」のです。「食べることは学んで得られる習慣」であり、「出発点は異なっても、味覚や食習慣は絶対的なものではなく、変えられるのだと認識することが、よりよい食べ方を学ぶ第一歩となる」ものです。
この誰もが否定し得ない事実は、好き嫌いする子どもにどうやって野菜を食べさせれば良いのか、大人になってもジャンクフードがやめられずに減量に成功しない私はどうすればいいのか、などの具体的な処方なしには説得力を持ちません。
学んで絶対に損はないことが三つある。第一は、決まった食事時間を守こと。第二は、自分自身の空腹感や満腹感に耳を傾け、料理の量などのよけいな刺激にまどわされないこと。第三はさまざまな食べ物を積極的にためしてみること。これら三点は子供にも教えられるのだから、大人が学べないはずはない。(p25)
さて、私たちは「食べる」ことをどのように学べばよいのでしょうか。
「好き嫌い」は遺伝しない
私たちは無意識のうちに必要な食物を食べ、有毒な食物を食べないような「本能」を持っているのでしょうか。「身体の知恵」を私たちも持っていることを裏づけるものとして、1926年にクララ・マリー・デイヴィスが実施した実験が取り上げられてきました。シカゴの小児科医であったデイヴィスは、子どもに味の予備知識を与えずに好きなものを食べさせたらどうなるかを6年間にわたって実験したのです。
デイヴィス医師は子供の食欲に関して前例のない、大量の情報を集めた。…デイヴィスはクリーブランドではじめた仕事をシカゴへ移して、「食の実験孤児院」ともいうべき施設を立ち上げた。そして、全部で約3万6000食の内容のほか、身長と体重、血液と尿、便通と骨密度の変化を記録した。今後、科学者がこれほど詳細なデータを得ることはないだろう。この目的で子供を実験養護施設に長期間とどめるのは倫理にもとるだろうから。乳児は最短で6ヶ月、最長で4年半実験食を食べ続け、その期間はずっと病院で過ごした。(p38)
この実験の結果は、食欲の大部分を遺伝子が支配しており、子どもは身体的必要性に応じて「好き嫌い」をしている証拠とされてきました。「自然な状態においては、好き嫌いは遺伝であり、指紋と同じく人によって異なる以上、好みは生まれつきで育ちは関係ないことを証明している」とされたのです。ところが、この実験にはいくつかの決定的な限界がありました。それは、「子供を取り巻く食品環境を根底から変えて実験を行った」こと、加工食品が加えられていないこと、などです。
科学的証拠は-人間でも実験用ラットでも−「身体の知恵」説には無理があることを示している。この説が事実なら、雑食動物には、いかなるときであれ身体が必要とする栄養素をおぎなうための特殊な食欲が存在しなければならないはずだが、そう主張するのは相当にむずかしいだろう。なぜなら、雑食動物が必要とする栄養素を含む食物は数かぎりなくあるうえ、生息する環境によって左右されるからだ。(p42)
どうも(少なくとも人間に関しては)特定の食物に対する本能的な食欲を示唆するデータは、存在しないようです。
親子よりも、夫婦や恋人同士のほうが好きな食べ物の共通点は多い。この事実が示しているのは、遺伝よりも環境−誰と食べるか−のほうが、食習慣の形成に強く影響するということだ。わたしたちの生まれつきの傾向がどうであれ、経験のほうがまさるのである。ひょっとしたら、あなたが親と同じようにセロリが嫌いな理由は、夕食の席でセロリにひるむ親の姿を見てきたせいかもしれない。ある研究者たちが、就学前の子供を三つのグループに分け、異なる味の豆腐−味付けなし、砂糖がけ、塩がけ-を食べさせてみたところ、即座に子供たちは彼らの遺伝子に関係なく、最初に食べたものをもっとも好むようになった。つまり遺伝的に決定された好みが遠くおよばないほど、わたくしたちは食べ物に対して驚くほどオープンに反応できるのであり、それは生涯を通じて変わらない。(p44)
こう考えると、食べ物についての経験を多く持っていない子どもは、大人よりも「好きな食べ物」は少ないことになります。
記憶と深く結びついた食べ物の「好み」
子どもたちの嗜好の幅を広げるのに重要な時期とされる1歳から3歳までの幼児期は、あいにく「イヤイヤ」期と重なっているとも指摘されています。つまり、この頃に嫌いなものとされた食べ物でも、粘り強く、適切に子どもが食べられるものの幅を広げていけば偏食はなくなるはずです。
クックは、野菜をもっと好きになるための「ほんの一口作戦」を考案した。そして、大勢の子供たちがこれを学校でも家庭でも実践し、ニンジン、セロリ、トマト、赤ピーマン、キュウリなどの生野菜を食べられるようになっている。…やり方はこうだ。親と子で相談し、あまり好きではない野菜を決める(大嫌いなものを選んで強い拒絶反応を起こさせないようにするため)。10日から14日間、夕食以外の時間を選んで、豆粒程度の量を毎日与える。子供がそれを味わったら−飲みこむ必要はなく、なめるだけでもOK−表に印をつけ、ステッカーをあげる。もし失敗しても、それはそれでかまわない。つねに明日がある。(p62-63)
「ほんの一口」というストレスの少ない方法で、挑戦する野菜を自分で選んでいるという感覚、それにステッカー(確かに子どもたちはシール好き)という子どもが好きなものがもらえるという条件が、うまくいくコツかもしれません。
ところで、家庭料理と優れたシェフがつくる料理との、どちらが「食べる喜び」をもたらすのでしょうか。誰がつくるにせよ家庭料理は毎日食べる「慣れ親しんだ」(もしくは飽きてしまうかも)料理であるのに対して、レストラン等で食べる特別な料理は、やはり「美味しい」と思うことが多いのではないでしょうか。ところが、「万人が喜ぶ料理」が果たしてあるのか。「シェフたちは日々、個人の記憶と、それが食べる喜びにおよぼす影響という難題に直面している」とも考えられるのです。その意味では、「家で料理を作る人のほうが有利」といえるのです。「誰がどの食材にどんな反応を示すのかを知っている」のですから。こうした家族や家庭の記憶と結びついた食べ物のあり方に、大きな脅威となっているものがあります。
ジャンクフードが非常に危険なのは、健康に悪いからではない(実際に悪いのだが)。それがかけがえのない無数の記憶とからみあうことが、最大に問題なのだ。食を学ぶ際に記憶はつねに重要となるが、手作りの料理ではなく、箱や袋に入った食品がこれほど食の記憶を強化する時代は、今までになかった。大好きなブランドのアイスクリームやポテトチップスや精白パンを食べるのをやめなさいと助言されても、わたしたちはうるさいと思うだけだろう。こうした食べ物と別れ、よりよい食習慣を身につけようとすることは、喪失の痛みに耐えるという苦行でもある。失うのは自分自身の子供時代だからだ。(p111)
生まれた時から「嫌いな食べ物」も「好きな食べ物」もあるわけではなく、どれだけその食べ物に慣れ親しんでいるのかが鍵となるようです。それは小さい頃から家族と共に食べたという記憶であり、自分のために家族が料理してくれたという記憶と深く結びついたものです。それだけに、その「懐かしい」記憶とジャンクフードが結びついた場合には、ジャンクフードを「好きな食べ物」のリストから外すことがむずかしくなるのでしょう。
子どもがある食べ物を「嫌い」になるわけ
ある世代までのイギリスやアメリカの子どもにとって、ライスプディングは「嫌いな食べ物」の典型であったようです。しかし、これはライスプディングが美味しいか、まずいかという問題ではなく(まずかった可能性はあるのですが)、その背景に「わたしたちが子供の頃は、嫌いなものばかり食べさせることが、子供の身体だけでなく魂にもよい影響をおよぼすと考えられていた」(ルース・ロウィンスキー、1931年)という考え方があったようです。
子供に新しい味を好きにさせるときは、通常、繰り返し与えるという方法をとる。しかし、ライスプディングの例-と幼児食全般−を考えると、そうとは言い切れないことがわかる。つまり、強制やストレスをかけた状態で繰り返し与えると、嫌悪感を減らすどころか、ますます強める可能性が高いのだ。そう考えると、ある世代にとってのライスプディングの問題点とは、子供はそれを「食べるのが当然」とされていたことだった。(p115)
1912年と13年にイギリスで「子供の食事としてのライスプディングの役割」に関する教育関係者の会議が開催されました。19世紀半ばから第1次世界大戦までの半世紀の間に無償の義務教育が広がり、「子供の食の改善が重要な政治問題」となっていました。それまでの「子供-動物みたいなもの-は保護者が選んだ有益な飼料を食べていればいいのであって、自由に選択させる必要などない」という主流派の考え方に対して、教師や医者、社会運動家が批判の声を上げ始めたのです。
イギリスの献立はフランスに遠くおよばなかった。学校で昼食をとる新システムは、1906年に制定された学校給食法からはじまったが、デイリーメール紙が揶揄したように「不滅のライスプディング」がメニューの中心だった。1912年にマンチェスターのあるグラマースクールで出されたデザートは、次のとおりである。 月曜 フルーツ煮とカスタード、ライスプディング 火曜 ライスプディングとジャム 水曜 ライスプディング、タピオカプディングとジャム 木曜 ライスプディングとフルーツ煮 金曜 ライスプディングとジャム エドワード朝では「健康食品」と同義だったライスプディングは、子供向けの食べ物として強力に推奨されていた。満腹感がある。安い。しかも牛乳と「デンプン質」の両方が豊富に含まれており、若者の健康に適しているというのが、栄養学の権威の一致した意見だった。(p117-118)
ブラッドフォードの学校給食の先駆者たちは、健康によいからといって子供が嫌うもの(昔ながらの水っぽいライスプディング)を食べさせる必要はないし、反対に好きだからといって健康に悪いもの(ジャムプディング)を食べさせる必要もないと考えた。おいしく料理して、やさしく、粘り強く指導していけば、子供は自分のためになる食物を喜んで食べられるようになる。クローリーは、食べ慣れているもので「小さな野蛮人」たちの腹を満たすのではなく、将来まで続く健康的な食習慣を身につけさせることが自分の仕事であると理解していた。(p122)
しかしながら、このライスプディング論争の決着はつかず、その後何十年もの間、「イギリスの子供たちは、好きになることはほとんど期待されないまま、さまざまな品質のライスプディングを与えられ続けた」そうです。しかし、この会議で子どもの食べ物について「ハイレベルな論争が繰り広げられた」意義は大きかったと評価されています。
日本食と食育
ビー・ウィルソンは「おそらく世界中の誰の目から見ても、日本人は食べ物とうらやましい関係を築いている」「日本食−新鮮な野菜、かぎりなく新鮮な魚、繊細な汁物、優美に盛りつけられたご飯物−は、世界中から称賛される健康食の鏡である」と絶賛します。しかしながら、ここで評価する日本食(日本型食生活一般)がそれほど古い歴史を持つ物ではないことも指摘するのです。
ケンブリッジ大学で近現代の日本史を教えるバラク・クシュナー准教授は、日本食は近年まで「それほどたいしたものではなかった」という。時間をかけて煮こむとか炒めるといった基本的な料理技術が取り入れられたのは、1920年代になってからである。一般的な食事はタンパク質が少なく、しばしば危険なほど欠乏していた。クリシュナーによれば、20世紀になるまで、日本人は外国人が思うほど鮮魚を食べていなかったという(平均的な収入の家庭では週に1回程度)。何世紀にもわたって、日本人の人口の大部分を占めていた農民の日常食は穀物が主体であり、それにきざんだ菜や大根を混ぜて炊きこみ、あとは味噌汁と漬け物くらいだった。たしかに、悲惨とはいわないが、心躍るものでも変化に富んだものでもないのは事実だろう。(p318-319)
いわゆる「日本食」が生み出されるためには、3つの画期が必要だったようです。第一は明治政府が肉食奨励の啓蒙運動を行ったこと、第二に1920年代の軍隊における兵食改善が一般国民にも広められたこと、第三が戦後のアメリカからの食糧支援とアメリカ式の新しい給食が導入されたことであり、これに高度経済成長期以降の食生活環境の変化が「日本食」を生み出したとされています。
何よりも大きかったのは、「嫌い」が「好き」に変わったことである。経済の向上によって、かつての平均的な夕食はご飯のほかに1〜2種類の副食が付くだけだったのが、3種類以上の副食にご飯、汁、漬け物が食卓にならぶようになった。新聞の家庭欄は料理のレシピで賑わい、静粛な食事の習慣は消え、日本人は熱心に食について語りはじめた。外国のレシピを参考にしながら、自分たちの味覚にあわせた工夫を凝らし、朝鮮風の焼き肉、洋風のエビフライ、中華風の炒め物など、日本に来た外国人が「日本食」と思うような料理を作っていった。おそらく、ほんとうに長いあいだ他国の食と交わらなかった歴史があるせいなのだろう、日本人は西洋料理をそっくりそのまま取り入れようとはせず、量にしろ、献立にしろ、日本の伝統的な概念にあうように調節した。たとえば、オムレツを主菜にする場合、西洋社会だったら隣にフライドポテトを盛るだろうが、日本では野菜、ご飯、味噌汁とあわせる。ついに日本は、変化に富んで、楽しく、健康によい、わたしたちがまさに「日本食」と期待する食事をスタートさせたのだ。(p325)
確かに、例えば、いま日本を訪問している外国人旅行者に好きな日本食を聞けば、カレーライスやトンカツ、エビフライ、ラーメンなどが並ぶに違いありません。これはすべて日本風にアレンジされた、「和洋食」や「和風中華」です。とはいえ、日本のように国家レベルでの食生活様式の変更が可能だからといって、個人レベルでも「簡単に達成できるとはかぎらない」のであり、外圧では無理なのです。では、どうすれば良いのか。
アドバイスに変えて
ビー・ウィルソンは最後に、「もっと早くわかっていればと思ったいくつかの事柄」を列挙しています。
食べることは技術である。わたしたちはそれを学ぶか、学ばないかだ。年齢がいくつであろうと取り組むことができる砂糖は愛ではない。しかし、わたしたちにそう感じさせる。
遺伝子で悪い食べ方を運命づけられている人はいない。偏食は遺伝子よりも環境によって統御される。
…食べるものを変えるためには、好きなものを変える必要がある。…
…食べ物よりも、それに対する自分の反応に注意を向ける。
強制されれば、なにを食べてもおいしくない。秘訣は−できるかぎり-ヘルシーな食べ物と楽しめる食べ物を一致させること。
食のいちばんの目的は、自分自身を養うこと。
手作りの料理を食べる人のほうが、ずっとバランスのとれた食生活を送っている。…
料理できないほど忙しい人はいない。
嫌悪は欲望よりもずっと強い。…ヘルシーフードを買ういちばんの方法は、なるべく安売りに手を出さないこと。そうしてはならないからではなく、いやな気持ちになるからだ。
カロリーは道徳の同義語ではない。…
なにを食べるかを変える前に、どのように食べるかを変えよう。…
スープを食べよう。
食事時間ではないときに、「ヘルシー」なスナックのどちらを買うか迷ったら、答えはおそらく、どちらも買わない。
メインの料理をどちらにするかを決めかねたら、迷わずほんとうに好きなほうを選ぼう。そして満腹になったら、食べるのをやめる。
無駄が好きな人は誰もいないが、食べ残すのをマナー違反だと考えるのはそろそろやめにしよう。…
小さめの皿は、ほんとうに効果的だ。…
なにをメインにするか考えなおそう。…
うれしいことがあるたびに砂糖たっぷりの巨大なケーキで祝う必要はない。…
食生活をなにか少し変えたとき、喪失感にとらわれないように心がけよう。…(p363-365)
まだまだ格言は続きます。やはり、「食べる」ことはいくつになっても「学べる」ことなのです。
朝岡 幸彦(あさおか ゆきひこ / 白梅学園大学特任教授/元東京農工大学教授)
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