vol.37“菌”本位主義の田舎のパン屋さん ~食と食育を考える100冊の本(19)
渡邉格・麻里子『菌の声を聴け』ミシマ社、2021年
タルマーリーの主人・渡邉格さんとその女将・麻里子さんは、前著『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』(2013年)で知られたこだわりパン屋さんです。本書は、岡山県真庭市勝山で「成功」したかに見えたタルマーリーがお店をたたんで、鳥取県智頭町の山奥に移転するところから始まります。
2014年、『腐る経済』出版からちょうど一年が経った頃、タルマーリーは絶頂期を迎えていた。本は日本でも予想以上に売れたが、なんと韓国では翻訳本がベストセラーになり、国内外からたくさんのお客さんが来てきてくれるようになっていた。そしてこの年の10月5日、フジテレビの番組「新報道2001」でタルマーリーについての特集が全国放送されるや、パン屋の前に朝から大行列ができ、連日開店から約2時間ですべてのパンが売り切れるという異常事態になっていた。
パンを都会に出荷しなくても、田舎の店舗だけで売り切れるなんて…。開業当初からの販売努力を思うと、夢のような状況だった。しかしこの頃、私たち夫婦は身も心もボロボロに疲れ切っていたのである。(p8-9)
もともとイタルさんにはもっと広い物件に移転して「ビールを始めよう!」という意欲があったようです。なぜ、パン屋がビールを作るのか、という問いにはあとあと合理的な理由があるのですが、移転という決断の背中を押したのは「子どもたちの教育問題」であったそうです。
東京から千葉へ移住し、さらに岡山へ移転し…。タルマーリーを軌道に乗せるために、私たち夫婦は幼い子どもたちを保育園に預けて一生懸命働いた。しかし、現代の保育園では何よりも「安全」を重視し、怪我をする恐れから、自然の中で身体を動かす活動は避ける傾向にある。座学だけでなく野外で身体を動かして学ぶ経験も重要だと思うのだが、危険を避けるばかりで、子どもたちに多様な経験をさせてあげられない。保育園で叶わないのであれば、休日に親が自然体験をさせてあげられたらいいのだが、私たちは仕事で忙しくてそのような時間をとれず、もどかしい思いを抱えていた。
「田舎で暮らせば日常的に自然の中で遊べる」というイメージは幻想だった。むしろ、田舎より都会の人のほうが自然体験を重視していることにも気づいた。それに、過疎地域では保育園や小学校がそれぞれ公立一つしかなく、選択の余地がない。(p12-13)
確かに「田舎でしかできないモノ作りを生業としたい」イタルさんとマリコさんには、「都市で暮らし子どもたちに都市で教育を受けさせ」るという選択肢はなさそうです。
…そうして相変わらずの悩みを抱えていた2014年の夏、「森のようちえん まるたんぼう」のスタッフが勝山の店にパンを買いに来てくれた。こうしてご縁ができたことを機に、私たちはすぐに智頭町へ見学に行った。
そしてそこにまさに、マリが望んできた教育の姿があった。このとき息子のヒカルが保育園の年中組、つまり小学校入学まであと一年なので、森のようちえんを経験するには最後のチャンスというタイミングだ。
というわけで、智頭町の森のようちえんに通える地域にビール工房を作り、私たちの生活拠点もその周辺に移すことを考え始めた。…(p13-14)
このように書くと、いかにも都合よく何もかもが順調に進んでいるように見えますが、そんなに簡単なものではありませんでした。智頭町役場の人たちとの出会いや幾つかの偶然が重なって智頭町の旧那岐保育園に辿り着くのでした。
菌との対話
「自家製酵母(出芽酵母)パン」を作るタルマーリーは、ビール酵母、レーズン酵母、全粒粉酵母、ホワイトサワー、酒種(麹)の5種類を使っています。これらの酵母を作るために空気中から酵母、乳酸菌、麹菌の3種類の「野生の菌」を採取しているのです。
菌にもいろいろあるが、商業的に発酵食品を作る場合、純粋培養したイースト菌を購入して使用するのが一般的だ。しかし私は、野生の菌だけを使う。この仕事を始めるまで、空気中に浮遊している菌たちの存在など考えたこともなかったのだが、伝統的な発酵技術を調べてみると、人間は野生の菌とうまく付き合ってきたことがわかった。そうして私は実際に野生の菌との対話を始め、この世界にのめりこんで行った。(p43)
麹菌の採取方法はごくシンプルである。竹を割った皿に蒸した米を盛り、それを数日置いて、カビが降りてくるのを待つだけである。…
麹菌採取で気を付けるべきことは、餌となる米の質だ。麹菌に降りてきてほしいのなら、無肥料無農薬で栽培した自然栽培米を使う必要がある。肥料や農薬を多投して栽培した米を使うと、他の腐敗菌が降りてきやすくなるのだ。
また、夜温が20度を下回るような時期には麹菌は降りてきにくいようだ。よって智頭町の場合は7月半ば〜9月半ばの期間、3〜5日に一度、蒸した米を仕込む作業をひたすら繰り返す。経験上、9月初旬の稲刈り時期に空中の麹菌が増えるようで、一番採取しやすい。(p48-49)
岡山で営業していた頃のタルマーリーは古民家という環境で麹菌を採取していたのですが、智頭町の工房は旧保育園であるため麹菌の採取には数年かかると覚悟していました。しかし、なんと移転したばかりの2015年8月31日に「きれいな麹菌」が採取できたのです。やはり、空気中から野生の菌を採取するためには「パン工房の外の自然環境こそが大事」なんだと安堵したのもつかの間、続く2019年までの3年間は麹菌採取に失敗したのです。
現代の智頭町では、蒸し米を置いておくと、あるときは黒カビ、あるときは灰色のカビ、またあるときは青カビが降りてくる。緑の麹菌だけ降りてくるのは空気が澄んできれいなときだけなのだが、そんなときは1年に1〜2日訪れるかどうかである。では麹菌以外のカビが降りてきてしまう原因はなんなのか。私はこの5年間ずっと観察を続けてきた。…
たとえば灰色のカビが降りてくるのは8月のお盆休みの頃である。どうやらこれは大勢の来客によって増える車の排気ガスが原因のようだ。
また黒いカビが降りてくるのは農薬の空中散布のあとである。この地域に広がる田んぼでは夏に2回ほど、ヘリコプターでの農薬散布が行われる。それまでせっかくきれいな緑の麹菌が降りてきていても、空中散布後10日間ほどは黒カビが降りてくるようになる。
一見空気がきれいに見える里山でも、実際には様々な化学物質が存在している。そうすると大気中にはその汚染状態に応じたカビが増える。目に見えないので意識しにくいが、私たちはもっと空気中の物質構成や菌の変化に気を配った方がいいと思う。(p51-52)
こうした苦労を重ねながらも、手持ちの菌が尽きかけた2020年の麹菌採取は「今までの経験が通用しないような未経験の現象」、つまり「仕込むたびに、いつもより麹菌の割合が格段に多い」という幸運に恵まれたのです。2020年はどんな年だったのでしょうか。そうです、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックが世界に広がる中で、経済活動が劇的に減ったのです。結局、タルマーリーにおける「菌との対話」は、菌と向き合う人(職人)ー菌が繁殖する工房(家屋)ー菌に影響を与える地域の自然環境ー人間の経済活動による環境汚染、という大きな「つながり」の中で行われているのでしょう。
「タルマーリー式長時間低温発酵法」
童謡「あさいちばんはやいのは」(阪田寛夫作、越部信義作曲)の1番は「パン屋のおじさん」なのですが、やはりパン屋さんは重労働なのですね。
伝統的なパンの製法は手間暇かかるし、はっきり言って重労働である。そして真面目なパン屋さんほど、自家製酵母だけで実直に作っているけど、いつも疲れている…。そんな疲れた様子のパン屋さんに出会うたびに私は、どうにかもっと楽になる製法はないものかと考えるようになった。正直、一番疲れていたのは自分だったかもしれないけど。(p61-62)
一方で私は智頭に移転する前まで、パン作りをやればやるほど苦しくなっていた。なぜだろう?苦しくなるパン作りは、どこかに間違いがあるのではないか?私がめざしているのは、やればやるほど楽になる、楽になるのに比例して労働の楽しみも大きくなる、そんなモノ作りではなかったか。…野生の菌や素材の力を最大限に引き出すことで、ゆったりと楽しいパン作りができるようになりたい。(p63)
一般的なパン製造工程は、①ミキシング(生地を作る)→②1次発酵→③分割→④成形→⑤2次発酵→⑥焼成なのですが、タルマーリーではミキシングの前に「酵母作りと酵母の調整」を行なっているため「酵母が一番良い発酵状態になったときとミキシングを合わせ」なければなりません。岡山では1日に9種類の生地を7時間かけてミキシングするという「苦しい作業」をしていました。数日分の生地をまとめてミキシングできれば楽なのですが、「パン生地を冷蔵庫で1日以上おくと、酵母が環境変化と糖分不足で死んでしまい、その後は発酵せずにパンが作れなくなる」というのが「パン業界における常識」なのだそうです。この常識を覆す秘策がタルマーリーのヒット商品「和食パン」で、「炊いたご飯を練りこみ、酒種をふんだんに使って発酵させる」という方法でした。しかし、智頭町に移転してから和食パンを製造していませんでした。それは、「酒種を仕込むだけでも手間がかかるが、その酒種を大量に使い、中種(本仕込みをする前に、炊いたご飯と酒種を混ぜて先に発酵させたもの)を作って調整するのに半日かかり、生地を作ると数時間で発酵してしまうという厄介なパン」なのだそうです。酒種の生地を2日冷蔵しても使えることに気づいたのですが、「もっと長く冷蔵庫においておけたら、さらに生地作りの頻度が少なくなって労働が楽になる」と考えたそうです。
パンに使うビール酵母とは、ビールの一次発酵の結果に生まれる澱のことで、ここにたくさんの酵母が含まれている。この澱を小麦粉と練って発酵させ、パンにするのだ。…(p67)
そうして智頭へ移転して、晴れて酒造免許を取得し、ビール工房を整備した。もちろんそれは飲用のビールを醸造販売するためなのだけれど、この工房のおかげでパン用のビール酵母が大量に確保できるようになった。そしてじつはこのことにこそ大きな意味があったのだ。このビール酵母をパンに活用しない手はない。そうして私はパンのレシピをガラッと変え、すべてのパンにビール酵母を使ってみた。
そして試作の結果、なんとミキシング作業の頻度が、1週間に1回で済む製法を開発することができた! つまり、冷蔵庫に1週間寝かせておいても酵母が生きていて、焼く前日にホイロで発酵させてパンを焼ける、という夢の製法ができたのである。
名付けて「タルマーリー式長時間低温発酵法」!!!
具体的なパン製造スケジュールを説明すると、現在のタルマーリーでは週五日、木・金・土・日・月曜にパンを焼く。その五日分のパン生地は月曜日にすべてまとめてミキシングをして作り、焼く日ごとに生地を取り分けて、冷蔵庫に寝かす。そして焼く前日に冷蔵庫から取り出し、ホイロで発酵させて焼く…という製法だ。
しかもタルマーリーで実現した製法は、化学物質や菌の純粋培養技術に頼ることなく、砂糖、卵、バター、牛乳といった副材料も使わず、すべて自然法則にしたがって編み出したのだから、喜びもひとしおだ。さらにビール酵母を使うと、以前よりも柔らかく食べやすパンができたのだ。(p68-69)
こうして「タルマーリー式長時間低温発酵法」を確立して作業が画期的に楽になったタルマーリーでは、いよいよ「ビールへの挑戦」が始まるのですが…、紙幅の関係で(ほんとうはあまりネタバレすると読んでいただけなくなるので)ここでは割愛します。
タルマーリー、新たな挑戦
この本のエピローグにあたる「タルマーリー、新たな挑戦」は女将のマリコさんが書いています。職人であるイタルさんの眼差しとは違う、マリコさんのまとめはこの家族がどう生きてきて、これから何を目指そうとしているのかを語っています。
イタルさんとマリコさんがタルマーリーを経営するためには、家族やスタッフだけでなく、行政や地域の人たちの協力や支えがあったことは想像に難くありません。確かに、知り合いの少ない田舎で暮らそうとした時に「まあ、ここでは食うには困らないけぇ、なあぼでも生きていくことはできる。米はとれるし、川で魚は釣れるし」と何かと手助けしてくれるケンさんの言葉にどれだけ励まされたことでしょう。
マリコさんが振り返る「智頭町に暮らし始めてからこの六年間」の四つの「大きな出来事」は、①「ヒカルが森のようちえんに行ったこと」、②「イタルがパン職人からビール職人になったこと」、③「モコが自分で行きたい中学校を選択したこと」、④「地域で同じ志を持つ仲間ができたこと」です。それぞれが大切な物語なのですが、マリコさんが同志と結成した「智頭やどり木協議会」による「まちやど」構築事業の町補助申請書(抜粋)をご紹介します。
当協議会は「麹の降るまち」をコンセプトに、智頭町の豊かな自然や文化的資源の価値を守りながら活かしていくことで、都市一極集中ではない「分散型社会」の形成をめざします。その方法として、智頭宿に「まちやど」を構築し、「地域資源活用型、長期滞在型観光」をしていきます。…
当協議会はこれら(智頭町の社会課題)を解決していく方法として、旅行者がゆっくりと暮らすように滞在できる「まちやど」を築きます。近年、「アルベルゴ・ディフーゾ」や「まちやど」という観光とまちづくりのあり方が注目を集めています。「日本まちやど協会」によると、『「まちやど」とは、まちを一つの宿と見立て、宿泊施設と地域の日常をネットワークさせ、まちぐるみで宿泊客をもてなすことで地域価値を向上していく事業』です。
当協議会は初めの一歩として、智頭宿の空き家物件を改修し、「まちやど」の核となるように、レセプション、カフェ、食料雑貨店、一組限定の宿(キッチン付き)の機能を持つ施設を作ります。かつて宿場町として栄えた智頭宿は石谷家住宅などの観光資源が多く、駅周辺の商店にも徒歩で行けるため、不便なく長期滞在ができます。…
人口が減少していく時代に入り、真に豊かで成熟した生き方の提案が求められています。今こそ、美しい自然が残る智頭町ならではの豊かな暮らしを、より多くの人が実現できる体制を整備していくときだと思います。(p237-239)
こうして新しいカフェ&宿「やどり木の家」をオープンしたのです。
朝岡 幸彦(あさおか ゆきひこ / 白梅学園大学特任教授/東京農工大学名誉教授)
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