vol.32差別と闘う、「屠場」の労働者 ~食と食育を考える100冊の本(14)
鎌田慧『ドキュメント 屠場』岩波新書、1998年
鎌田慧さんと言えば、『自動車絶望工場』(1973年)、『教育工場の子どもたち』(1984年)、『日本の原発地帯』(1982年)などハードな問題を鋭く抉るルポルタージュの名手として知られています。その膨大な著作の中で、(めずらしく)食の現場を取り上げた作品が、本書です。
これまで、わたしは鉄鋼、自動車、造船、電気、炭鉱など、日本の基幹産業の現場と労働者のルポルタージュを書いてきていたし、農業についての本はないとはいうものの、農家の取材も多い。が、おなじ食料として重要な食肉産業については、これがはじめてである。農家でごくふつうにみかける牛や豚が、どのようなプロセスをへて食肉になるのか、そのことが伝えられてこなかったのは、不思議である。そのことも、いまなお屠場にたいする偏見と差別が露骨に遺されている大きな要因ではないだろうか。(p227-228)
「屠場(とじょう)」とは「屠畜場(と畜場)」のことであり、「食用に供する目的で獣畜をとさつし、又は解体するために設置された施設」(と畜場法第3条)と規定されています。こうした施設の経営と食用獣畜の処理の適正を確保するために公衆衛生の見地から必要な規制その他の措置を講ずるため(第1条)に、「と畜場法」が制定されています。ここでいう「獣畜」とは、「牛、馬、豚、めん羊及び山羊」を指しており、鶏やそれ以外の動物は対象ではありません。つまり、私たちがふだん食べている「お肉」のほとんどは、鶏を除いて屠場(と畜場)で解体処理されているのです。 日本国内には135の「と畜場」があり、135社の「と畜者」、22社の「管理者に該当する荷受業者」が存在します(2023年7月現在)。
食肉生産者への差別
この「食育のチカラ」でも「肉食のタブー」について取り上げたことがあります。
米と菜食を中心とする日本的な食事が確立する背景には、仏教思想や肉食を「汚れ」とみなす日本人の肉食禁忌の観念があると言われてきました。しかし、日本で最初の肉食禁止令となる「天武の殺生禁断令」(675年)は漁撈への従事とウシ、ウマ、イヌ、サル、ニワトリの肉食を禁じているものの、禁止期間を農繁期に限り、それ以外の肉食を禁止しないとの但し書きがついています(鵜沢和宏、肉食の変遷、2008年)。つまり、農繁期の(主に家畜の)肉食を禁止することで農業生産への集中を促すとともに、日本の最も代表的な狩猟動物であるシカとイノシシが抜け落ちていることから、「肉食そのものを強く禁じる意図がなかった」と考えられています。そもそも何度も繰り返し殺生令が出されたという事実(12世紀初頭までに11件の殺生令が出された)そのものが、禁令にもかかわらず日常的に肉食が行われていたことの裏返しであり、ほぼ家畜家禽に限定されていることが、野生動物の肉食を裏付けているのです(原田信男、中世における殺生観の展開、1995年など)。
このように実態とはかけ離れて肉食が禁忌された背景には、武士が武具に使う皮革を独占するために、弊牛馬(へいぎゅうば)の処理を被差別部落に任せて禁止したためだとも言われています。とりわけ西日本では、律令制のもとで定着農民を「良」、その上の管理者を「貴」、そこから外れた人を「賎(せん)」としたことが、「歴史的に被差別部落がおこなってきた先の仕事が『賤業(せんぎょう)』とされる、思想的、社会的根拠」(川本祥一『横浜の屠畜場の変遷』横浜市中央卸売市場肉市場刊)であると述べられています。
牛や豚の肉を食べながら、その生産者を差別するのは、自分の身体を粗末にしている行為ともいえる。自分の身体にいれるものを嫌がっているのなら、不健康である。田圃や畠や海ではたらくひとたちには感謝しこそすれ、差別することはない。それなのに、どうして肉の場合だけ差別するのか。「ゴチャゴチャぬかすなってな」というのは、当然の怒りである。ふるくからの差別政策がそのまま、意識にこびりついているのにすぎない。(p11)
日本で屠畜と肉食のタブーに「風穴」があけられたのは、幕末の「横浜外国人居留地覚書」(1864年/元治元年)の第4条に「屠牛舎(とぎゅうしゃ)」の造営が約定されたことによるとされています。翌年には横浜小港海岸に最初の「公営屠場」が建設・貸与され、横浜には2~3軒の肉屋があったといわれています。ところが、近代以降に日本で肉食が定着する中でも、相変わらず家畜を処理する人たちを差別する傾向が根強く残りました。1906年(明治39年)に「屠場法」が公布されて、多くの屠場が公営化されてもなお「差別はそのまま残った」のです。
日本一の食肉工場と労働組合
本書では、まず東京芝浦屠場での牛や豚の屠畜解体作業工程が詳しく説明されるとともに、そこで働く労働者の「熟練」の技がリアルに紹介されています。
鉄のドアをあけてはいると、ウォーンとした熱気が襲いかかってきた。すべてが動いている。天井のトロリーコンベア、はたらいている労働者。わたしは自分の体験もふくめて、いろんな工場を知っているのだが、全体にやわらかな活気を感じさせられるのは、相手が無機質な鉄やガラスではなく、動物だからだ。
シャワーで身体を洗われた豚たちは、狭い通路を追い立てられ、ゴンドラにいれられる。下の部屋に降ろされると、炭酸ガスを浴びて意識を失う。その隙に、喉から放血させられる。
「おいしいかどうかは、放血の闘い」
といわれている。大きな魚もおなじようなものである。
そのあと、前後の肢が切除され、胸が割られる。流れ作業である。頭を落とされると、豚はもはや豚ではなく、すでに一個の物体でしかない。内臓が摘出され、皮剥き機にかけられる。
牛の解体は、これにくらべると、はるかにダイナミックで、映像的だ。映画監督ならずとも、映画に撮りたいと思う。囲いに追い込まれた牛は、額に銃撃(ピストルの銃口から針が出る)を受け(ノッキング)、全身硬直する。と側面の鉄板がひらかれ、その瞬間、どうとばかりに牛は傾斜を滑り落ちる。待ち構えていた労働者が、一瞬にして額にあけられた穴にワイヤーを通す。完全に神経を麻痺させておかないと、あとで暴れだす。片足で逆さに吊るして、喉から放血させる。
トロリーコンベアのスピードは、想像していたよりもはるかにはやい。その流れのあいだに、前肢、後肢、頭部を断ち落とされていくのだが、労働者の動きに無駄がない。熟練ばかりではない、重労働でもある。…
頭落としのあと、逆さに吊るしたまま、皮剥ぎ機で胸のあたりから皮を引っ張る。尻尾の先端までひん剥くと、まるで柔らかな毛布のように、牛皮が床に崩れ落ちる。
プラットホームのうえで、待機している労働者の目の前に、それでもまだ牛の形をした物体が揺れながらちかづく。一太刀いれると、すべての内蔵は一瞬にして胴内をはなれ、雪煙のような湯気をたてながら、雪崩をうって床下のスチール製のシュートを駆け抜ける。そこからはみえないのだが、そのむこうに、内蔵業者の解体場が待ち受けている。ひと抱えもある内臓の塊りは、そこで、たちどころに腑分けされ、モツの材料となる。熟練の世界である。(p5-8)
『いのちの食べ方』という映画(2005年)は、国は異なりますが、こうした屠畜の風景を淡々と描いています。 この屠場には、全芝浦屠場労組という労働組合があります。この組合が結成された 1971年12月に「東京芝浦臓器株式会社」に向けて、次のような「団体交渉申入書」が提出されました。
一、作業責任区分の明確化
一、屠殺頭数の増減及び作業に関するすべての問題について組合と事前に協議決定のこと
一、この問題に関する事項で業者に圧力を加えない(現在は割当パーセントを確保する)
一、組合員の解雇、配転、昇進、降格等に関しては事前に組合と協議決定する
(『いばら20年のあゆみ』部落解放同盟東京都連合会品川支部)(p13)
この申入書を提出した組合員たちは「牛、馬や豚の内臓を売買している下請け業者の労働者や豚の頭(かしら)を売買している労働者」で、東京芝浦臓器に雇用されている者はほとんどいませんでした。雇用関係のない企業に、どうして労働者たちは要求書を出さなければならなかったのでしょうか。芝浦屠場は都立の施設ですが、都による合理化と人員削減によって人手不足となった作業を内蔵業者に引き受けさせていたのでした。
内蔵の流れはまず市場会社から臓器会社が一括して内蔵を買い、それを又内蔵業者が買い、そして屠場にきている買い出し人等に売るというシステムです。内蔵業者が臓器会社より内蔵を売ってもらうかわりに、解体作業に全面協力をするという契約書をとられたんです。臓器会社に対して。解体作業をタダでして自分達で解体した内蔵をお金を出して買ってくるという、いわゆる「タダ働き」という形が出来上がったのです。
タダ働きというのは何も今に始まったのではなく歴史的なものがあるんですが。タダ働きのもう一つの要因として東京都の職員の大量削減という問題があるんです。120名いた都職員が配転などで一気に60名になった。その間の事情は都職労の配転(昭和43年)時に、たまたま職員の結婚問題で差別が起き、その時“屠畜解体しているから差別されるのだから、守衛にでもなれば…”と暗にそのことをほのめかして大量配転を行ったと云う話しです。職員の方も我れ先に配転に応じたらしい。
解体作業を手伝う筈のものが一躍解体作業の主体として内蔵業者及びその労働者が浮かび上がったのです。そして現在は都の職員58名で平均年齢53歳ですから、実質的な解体作業のほとんどは買い出し人の位置づけしかない内蔵業者がやっているんです。最近に至って報奨金なるものが都からきているわけですが、それが「頭(かしら)や」の場合三ヶ月3万円程度、小物、大物の内蔵ですと三ヶ月大体2~3千円程度とすごく少ないんです。そのほかの社会保障もゼロという状態なんです。(p17-18)
このようなタダ働きがまかり通るのは、「非常に足がはやい」(腐りやすい)内蔵を午後すぐに売り歩かなければならないため、「手伝っても何してもいいから、とにかく時間的に短かくして午前中で切り上げなければならない」という弱みが内蔵業者にあるからです。1973年5月に食肉市場労組とともに24時間ストを実施して報奨金が確保され、やがて部落解放同盟と共闘して屠場の公社化、都の直営化、都職員への道をひらいたのです。
仲間のやりやすさを第一に
屠場の労働者が差別と闘い続けることができたのは、「職人」としての技への誇りと「仲間」への敬意だと思われます。
解体の仕事は、「足もち三年、皮(むき)八年」といわれるほど、熟練形成に時間がかかる。「一人前になるのには一〇年」と金沢委員長もいう。
牛の解体は二一工程、七班でおこなわれる。豚はもっと簡単で、六工程で処理される。(p 22-23)
そうした仲間から頼りにされる人望ある親方、「どこか野坂昭如をたくましくした感じ」の今橋龍一さんの話が続きます。
俺はね、一番好きだったのが、きったねえ話なんだけど、内蔵の大腸裂きなんつうのは好きだったなあ。仕事じたいは、腸を裂くんだから汚いですよ、だけどね、自分としてはすごく好きだったね。なんつうかな、裂いてね、人と競争したりすんですよ、早さとかなんとか、若かったからね、夢中になって大腸裂いて、四〇〇本ぐらい。すっとね、左手がバカんなっちゃう、包丁を、こうなかに入れて、これをひっぱって切ってくから、この力が必要になるから。
ま、好き嫌いそれぞれあると思うけど、いろんななかの仕事でもってね、俺はあれが一番好きでね。芸術的、だろうね。
その裂きかたによっては、次の仕事でもってすごく負担なんですよ。腸ってのはね、脂(あぶら)を巻いてるもんだから、商品にするには脂をとらなきゃならないんですよ。裂きかたによって、その脂の取りかたによって、すごく楽なのと楽じゃないもんがあるんですよ。そんなもんで、夢中になって、どうやったらつぎの流れがうまくできるかってことを。
はやい話が、オンレールつうのは、つぎの人に楽にやってもらうため、ってのとおなじようにね。だからあの当時から、仕事に目覚めてったのかなあ。
作業ってのは流れ作業になるでしょ、一個一個ポジションがあるでしょ、ここやったら、つぎのひとがやるわけでしょ、と、つぎの人がいかに楽にやって仕事すくなくさせてやろうかと、一人ひとりがそう思ってくと、最後にはなにもやんなくたっていいような人間が出るような、そういうスタイルってのを、俺はあの当時から考えてたんだろうな、仕事が好きだっただから。
いや、相手じゃなく、自分の仲間だから。自分のとこの人間だから、どうしたってそういう感覚をもつ。(p 27-28)
こう語る今橋さんは母親のいとこが芝浦の内蔵屋をしていた縁で、この世界に入ってきました。北嶋利明さんは高校生の時の新聞配達アルバイトの配達先に豚のカシラ屋があり、「はるかにいい収入」になるため就職し、さらに三河島のハム会社の屠場に移りました。速水光男さんは朝鮮戦争前の不景気で仕事がないことから、内蔵屋の雑役夫になり、都職員への門戸が開かれた後も内蔵屋のままでいました。その長男の大さんも都の職員として屠場で働いています。大さんの父母双方の兄弟4人とも屠場で働いており、そこには「父子相伝の技術」もあるそうです。
これまでの取材で、わたしは、屠場の労働者集団の緊密性を感じさせられていた。そこには、親戚などの血縁関係ばかりではなく、速水さんのように、父子相伝の技術の伝承も反映しているようである。大さんは家に帰ってくると、よく光男さんから仕事のアドバイスを受けていた。「屠場労働者って、いいハートしてますよね、悪いやつ、すくない。ぼくなんか、知り合いがおおくて。ほら、おやじが古いですから、あれのせがれだって、感じで」と大さんがいう。かつて、大阪の市場では、労働者集団「協和会」が、屠畜作業を一手に請け負っていたそうだが、賃金の分配まで自主的におこなわれていた。労働者のプライドについて、こう書かれている。
「屠畜解体の職人は『仕事師』と呼ばれ、父子相伝の技術を身につけると、『何分取り』の身分になることができた。自分の仕事に誇りをもっていた。当時の協和会は『屠夫(とふ)』組合であり、一頭当たりの解体手数料(ナイフは自分もち)を親方が集めて、その判断で皆に分配していた。当時は仕事を早く終わって、内蔵の処理・販売などの副業をするのが普通であった。解体収入が少なかったせいであるが、反面、それだけ生活に融通性もあったわけである」(八木正「日本の食肉産業における雇用形態と労働の現状」、大阪市立大学『同和問題研究』第17号、1995年)(p51-52)
こうした仕事に対する誇りが仲間や品質への高いモラルを生みだし、差別に対する強い団結と人権意識につながっていると考えられるのです。
差別を越えて
本書には、東京・芝浦屠場の他に、横浜屠場、大阪・南港屠場で働く労働者、四国日本ハム争議を闘う労働者が登場します。
芝浦、横浜、大阪、徳島の各地の屠場をまわって、労働者との交流を深めながら、労働者集団としての豊かな人間関係をうらやましく思うようになった。ほかの職場では解体されてきた連帯感である。芝浦や横浜の労働者たちは、「屠場」の名称にこだわり、その場から意識の解放をめざしている。名称を変えたにしても、労働にたいする差別はなくなるものではない。労働そのものにたいする蔑視を変えていこう、との意志がこもっている。(p230)
ほぼ毎日、屠場で働く人たちが生産する「お肉」を食べている私たちは、こうした現実にどのように向き合えば良いのでしょうか。まずは、生きた家畜が屠殺されて「お肉」になっていく過程から目を背けず、そこで働く労働者に敬意を表することから始める必要がありそうです。
朝岡 幸彦(あさおか ゆきひこ / 白梅学園大学特任教授/元東京農工大学教授)
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