知ってなるほど 教授のお話し 食育のチカラ

vol.29落語に出てくるご馳走のお話(上) ~食と食育を考える100冊の本(11)

稲田和浩『江戸落語で知る四季のご馳走』平凡社(平凡社新書926)、2019年

稲田和浩『江戸落語で知る四季のご馳走』平凡社(平凡社新書926)、2019年

 料理がメインディッシュだけでは胃にもたれるように、食に関わるお話も「箸休め」が必要ではないでしょうか。私の知人に「大衆芸能脚本家」という珍しい肩書きを持つ人がいます。「おもに落語、講談、浪曲などの脚本、喜劇の脚本、演出を手掛ける」と著者紹介にはあります。この、稲田和浩が送ってくれた本の中には、『食べる落語 いろは うまいもんづくし』(教育評論社)『いろは落語づくし ○壱 落語からわかる江戸の食』(教育評論社)等と並んで、本書のように落語の世界に出てくる「食」の話があります。

 「昔はよかった」なんて言うが、昔が今よりいいなんていうことはない。…ではなんで「昔はよかった」なんて言うんだ?たぶん、昔の人は暢気だったんだと思う。あくせくしていなかった。イヤ、ホントはあくせく働いていたんだけれど、あくせく感がなかった。…夏は暑く、冬は寒い。それが当たり前だった。でも暑いのは嫌いだから、さっぱりしたもので酒を飲んだ。寒いのは嫌いだから、うどんとか熱いものを食べて寝ちゃった。日本には四季がある。季節の食べ物も楽しみだった。江戸っ子は「日々を楽しく暮らすこと」を信条としていた。江戸っ子たちにとっては、暑さ寒さ、それに応じた季節の食べ物も楽しみだった。(はしがき、p9-10)

 さて、落語の世界を通して、しばし江戸っ子の「ご馳走」を拝見しましょう。

新春 - お雑煮

 お正月といえば、今もまずはお餅にそれを入れたお雑煮でしょうか。もちろん、焼いたお餅を醤油につけてノリで巻くのもいいし、焼くか茹でるかしたお餅に餡子かきな粉をかけるのも美味しいですよね。とはいえ、真空パックでいつでもチンすれば美味しいお餅が食べられる現代では、お餅がお祝い事や正月の食べ物というイメージはないかもしれません。その点で、やはりお雑煮はお正月のご馳走ということができるのでしょう。まずは「かつぎ屋」を一席。

 商家の主人は「縁起のいいことが大好き」。誰でも大なり小なりはある。茶柱が立つと嬉しかったり。だが、この主人は極端。四六時中縁起をかついでばかりいるから、まわりの人たちから「かつぎ屋」と呼ばれている。…「かつぎ屋」の主人、おべんちゃらを言う番頭、主人をからかう飯炊きの権助、こんな人たちの正月風景である。(p14)
 やがて用意が整い、「かつぎ屋」いっかが雑煮をいただく。家族、奉公人が揃って雑煮をいただく。当時は餅がご馳走で、雑煮には野菜などもたくさん入っているから、正月の雑煮は粗食の奉公人にはかなり楽しみなご馳走だったに違いない。奉公人たちから、「明けまして、おめでとうございます」と挨拶をされるのは、「かつぎ屋」の主人としては至福のひと時であろう。その至福を破る出来事が起こった。雑煮の餅のなかから釘が出て来た。昔はこういうことがあったのだろう。おべっか番頭、ここが出番だ。「旦那様、餅のなかから釘がでた、ご当家は今年は金持ちになれる、まことにめだたいことでございます」危機管理能力がある番頭だ。金持ち(餅)とはうまいことを言ったが、いたずら心では権助にかなわない。権助がしゃしゃり出て、「餅のなかから金が出て金持ちなんてことがあるけえ。餅のなかから金が出たのなら、この身代は持ちかねる」(p17)

 今は節分といえば2月ですが、江戸時代には大晦日にも豆を撒いて、前年の厄を祓い新しい年を迎える豆撒きもあったようです。落語「厄払い」では与太郎が「厄払い」の口上を言って銭と豆(業者に買い取ってもらうらしい)を稼ごうとします。さて、おバカキャラの与太郎が、はたしてうまく次の口上をいえるのでしょうか。まぁ、落語なんで、それはないでしょうねぇ。

 あら、めでたいな、めでたいな、今般今宵のご祝儀に、めでたきことにて払うなら、まず一夜明ければ元朝の、門に松竹しめ飾り、床にだいだい鏡餅。蓬莱山に舞い遊ぶ、鶴は千年、亀は万年、東方朔は八千年、浦島太郎は三千年、三浦の大介百六つ、この三長年が集まりて、酒盛りなさんとするところ、悪魔外道が飛んで出て妨げなさんとするところ、この厄払いがかいつまみ、西の海へと思えども、蓬莱山のことなれば、須弥山の方へ、さらーりさらーり(p21)

 このほかに、赤飯と甘納豆が登場する「明烏」、串鳥と卵焼きの名店・扇屋が舞台となる「王子の狐」、親子が天神様の祭礼に行く「初天神」には団子が登場します。

春 - お花見

 春になると、いろいろな草花が芽吹き、なんとなく気持ちがウキウキするものですね。なかでも、やはりサクラの花が若葉に先んじて一斉に咲いて「桜吹雪」を魅せるソメイヨシノは圧巻です。落語にもサクラに関わる名作がいくつもあります。まずは、お馴染みの「長屋の花見」をご紹介しましょう。

 花見の料理として思い浮かぶのは「長屋の花見」だ。 貧乏長屋で大家が住人たちを花見に連れて行ってくれるが、酒肴を買う銭など、もちろんない。…大家が三升の酒を振る舞うと聞き、長屋の者たちは狂気する。… 「行きますよ、行きますよ、一升瓶三本ならどこにでも参ります」「おう皆、大家さんいお礼を言おうじゃないか、大家さん、ありがとうございます」 ところが、「そう皆でぺこぺこ頭を下げるなよ。そう礼を言われると始末に悪い。むこうに行ってから、こんなことなら来るんじゃなかったと愚痴が出てもいけないから、今のうちに言っておくが、これな、酒ったってホントの酒じゃねえんだ」「ホントの酒じゃない?」「番茶を煮出して水で割ったら、どうだ、いい色しているだろう」「おい様子が変わってきたぞ。喜ぶのは早いよ。なんですか、大家さん、こりゃお酒じゃなくて、お茶気ですか。酒盛りじゃなくて、おチャカ盛りだよ。どうも変だと思ったよ」…「こっちがせめてホンモノなら?そうだよな。大家さん、重箱の卵子焼きと蒲鉾はホンモノですか?」「冗談言っちゃいけねえよ。そっちをホンモノにするなら、少しは酒を買うよ」「そらそうだ。するってえと、この重箱のなかはなんです?」…かくて番茶に、沢庵、大根の宴がはじまる。「一献献じよう」「献じられたくねえ」「私は下戸です」「うまく逃げやがったなぁ。じゃ、肴をやりなよ」「じゃ、白いほうを」「色で言うな、蒲鉾と言え」「そのボコを」「玉子焼きをいただきましょう。あっ、しっぽじゃないほう」「私は歯が悪いんで、玉子焼きは食べられない」「私は蒲鉾が大好きで、毎朝千六本に刻んでお味噌汁の実にしている。胃の調子の悪い時は蒲鉾おろし」「うまい蒲鉾ですね。やはり練馬の産ですか」こんなやりとりが続く。(p45-49)

 貧乏長屋のお花見は、やはりこうでしょうね。なんとも可笑しくて、ちょっぴり寂しい気はしますが、番茶を飲みながら沢庵と大根を花見の重箱に見立てるのは、少なくとも健康には良さそうです(ただし、塩分は控えめに…)。とはいえ、花より団子の言葉のように、桜といえば桜餅が食べなくなりませんかねぇ。「おせつ徳三郎」には桜餅が登場します。

 「おせつ徳三郎」は商家のお嬢様のおせつと、年長の丁稚(または手代)の徳三郎の許されない恋を描いた長い話。…おせつ、徳三郎、婆や、長松の四人は、向島の三囲神社の近くで舟を降り、参拝をして、土手の茶屋に入る。茶屋の者からは、徳三郎は「若旦那」と呼ばれ、おせつと徳三郎は終始いちゃいちゃしている。そのうちにおせつが長松に、お店や奥のお土産にするから、長命寺へ行って桜餅を買ってくるように言う。「長命寺というのは赤い門のお寺です。旦那、知ってますか」「知らない者はいない。長命寺は元祖の桜餅。長命寺の門番が浅黄桜の葉を拾って塩漬けにして、それに餅をくるんで売ったのがはじまりだ」「その浅黄桜って絵のはどこにあるんですか」「門を入って右にある。その下に十返舎一九の句碑がある。ないそんか腎虚を我は願うなり、そは百年も生き延びし上 奥に蕉翁(おきな)の句碑がある。いざさらば雪見に転ぶところまで 名物だからな、桜餅もあそこに行って食べないと、何か物足りない心持ちがするものだな」「それから」「茶はなかなかよいものを出した」(p52-54)

 案の定、おせつと徳三郎の逢瀬は、主人にバレてしいます。結末と落ちは、落語を聞いてください。とはいえ、「噺と桜餅は何も関係ないが、桜餅が出てくることで、噺に味が出る。漬けた葉の味が染みているのだ」という稲田さんの言葉が、この文の落ちかもしれません。
 桜餅が出てきましたので、次はサクランボですかね。ただし、ソメイヨシノ(バラ科サクラ亜科サクラ属(またはスモモ属サクラ亜属)サクラ節エドヒガン群)とサクランボ(ミザクラ節ミザクラ群セイヨウミザクラ)とは節が異なっているため、街路樹となっている桜並木の下を探しても上を見てもサクランボはなっていないのです。サクランボの出てくる落語「あたま山」はなんとも不思議なお話しです。

 あるなケチな男がさくらんぼをもらった。あんまりうまいので、種まで食べた。「この種がお腹んなかでもって体内の暖かみでもって、ついに育ってきましてな、種から出て、だんだんだんだんこれが生長しますと、頭を突き抜けて、立派な木の幹になって、枝を広げて、春になりますと、見事な桜の花が咲きはじめました」…大勢の人があたま山の一本桜を見に詰め掛ける。うるさくてしょうがない。「こんな木があるからいけねえってんで、えい、って引っこ抜いたら、根が抜けまして、頭のまんなかに大きな凹みが出来た」 この凹みに雨水が溜まり、鮒や鯉が湧いて。頭山の池が出来た。釣人が集まって来る。しかも、夜中に船を出して、頭ケ池で釣りをする人が現れた。「兄ィ、一つ、ここいらで入れてみよう」「そうだな、一つここいらでやるとしよう。よいしょっと」「おいおい、しっかり舵を頼むよ。船をまわすな。まわすんじゃない。よいしょ。たぐってみるよ。手ごたえはある」「何が釣れた?」「草鞋が釣れた」 大騒ぎである。それが毎晩毎晩でうるさくて眠れない。とうとう男は、自分の頭の池に身を投げて死んだ。(p66-68)

 なんとも不思議な話で、理屈を超えた面白さがありますね。このほかに、梅干が登場する「しわい屋」、隣の屋敷の筍をめぐる武士の慇懃なやりとりが洒落となる「筍」、親孝行の大切さを説く落語「二十四孝」、さらに薮より未熟な医者が登場する「筍医者」もあります。

初夏 - 初鰹と酢豆腐

 落語の舞台は江戸(明治以降は東京)が多いのですが(もちろん上方落語では大阪でしょうか)、将軍様のお膝元・江戸のまちで暮らす町人を「江戸っ子」と呼びますが、「三代経たないと江戸っ子とは呼べない」というような言い方があるように、江戸(東京)(とくに下町)に住んでいるだけではダメなようです。しかし、鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社、2015年)によると、幕末になるまで圧倒的に男性が多くて居住環境も悪いため、江戸で世帯を持って子育てできた人の割合は少なく、まるで周辺の農村部から労働力を引き寄せる「アリジゴク」のような都市だったそうです。さて、いわゆる江戸っ子は初モノが好きで「女房を質に入れても初鰹」と言ったとされていますが、落語「髪結新三」には初鰹が登場します。

 そこに現れたのが髪結いの新三だ。こやつが忠七とお熊をたぶらかす。 五月の節句、忠七にお熊との駆け落ちをそそのかし、お熊をさらい、自分の家に隠す。…新三の長屋の大家、長兵衛が三十両で話をまとめて、お熊は白子屋へ戻る。新三と長兵衛のやりとりで初鰹が出て来る。「おや、いいものがあるじゃないか」「さっき魚屋が持って来た。あんまり活きがいいから、一本あつらえたんだ」「ふーん、ずいぶんと豪気じゃねえか。江戸っ子は初鰹を食わなきゃならねえっていうが、なかなか食えるものじゃねえ。安くねえだろう」「それほどじゃね。三分二朱だ」「三分二朱!そんなに高けりゃ、俺たちには食えない。どうだい、半身をくれねえか」「大家さんに言われちゃ仕方がねえ。半身は差し上げましょう」「どうせなら骨の付いているほうをくれないか。中落がうまいんだ」(p77-78)

 この大家がなかなかのしたたか者で、初鰹の半身を手に入れただけでなく、三十両の半分も撒き上げて白木屋から手数料五両をせしめてしまうのです。それに比べて落語「酢豆腐」に出て来る町内の連中の会話は、なんとも罪がありません。

 「銭がかからなくて、酒飲みの食い物らしくて、歯あたりがよくて、腹にたまらない。さっぱりして、衛生によくて、他人に見られて体裁のいいような夏の食べ物」「銭が掛からない」のが、やはりいい。おいおい、初鰹を食べる江戸っ子がいちいち銭のことを言うのか?江戸っ子はここ一番に銭を使うんだ。ここ一番の時に使うためには、普段は節約しなくちゃいけない。それに肴に銭を掛けるなら、一合よぶんに飲みたい、という気持ちはある。…さて、兄貴分の意見に添って、町内の連中から、さまざまな提案が出される。最初に出た提案は、「爪楊枝を一袋買ってくる。それを一本ずつ咥えて酒を飲むというのはどうだい」「それでどうなる」「はたから見れば、うまいものを食ったあとに見えて体裁がいい。歯の掃除が出来て衛生にいいし、腹にたまらねえ」 確かに条件は満たしているが、爪楊枝は酒の肴にはならない。次の提案。「ここの家の糠味噌桶に手突っ込んでごらん。思いがけない古漬けがあるから。それを細かくカクヤに切って、水に泳がせてから布巾で絞って生姜でも刻みこんで醤油でも掛けて出してみねえ」…古漬けのカクヤはナイスな提案だ。「やはり、さんざん銭を使った道楽者じゃないと、こういう知恵は出るものじゃないよ。おそれいりました。ところで、おそれいりついでに、お前が言い出しっぺだから、糠味噌の古漬けを出してくれないか」「おいおい、俺が考えたんだよ。考えた俺に言いつけるのはおかしくねえか。誰か他の者に頼もうか」「わかったよ。じゃ吉さん、お前、すまねえが古漬けを出してきちゃくれないか」「それがさ、この間、断ち物をしちまったんでね」「何を?」「糠味噌桶に手を入れないって、金比羅さんに断っちゃった」「それじゃ、しょうがない。六ちゃん、頼むよ」「それが遺言でね。おふくろが死ぬ時に、お前、糠味噌桶に手を入れてくれるなと」「よせよ。お前のお袋、まだ活きてるじゃないか。辰ちゃん、頼むよ」「ごめんこうむりやしょう」「何を?」「ごめんこうむるって言ってるんだよ。目先を利かせて、口を利きやがれ。コウ、世の中に糠味噌くれえ野暮なものはねえ。手を突っ込んだが最後、何度洗っても臭味が落ちやしねえ。ニチャニチャ油ぎりやがって爪の間に挟まっているなんざぁ、いい若い者のすることじゃねえ」(p85-88)

 偉そうなことを言っても、糠味噌が食いたいのに桶に手を突っ込むことのできない、なんとも意気地のない江戸っ子たちのお話です。このほかに、茄子の精との一夜の契りで子供ができてしまう「茄子娘」、勘当された若旦那がカボチャを売り歩く「唐茄子屋政談」、梨を断って虫歯を治そうとする「佃祭」が登場します。
 さて、まだまだ江戸落語には四季のご馳走が登場するのですが、この続きはまた後ほど…。お後がよろしいようで。

朝岡 幸彦(あさおか ゆきひこ / 白梅学園大学特任教授/元東京農工大学教授)

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